第64期 #12

数学と生活

伯父は根津駅前の吉野家を指定した。私達はカウンターで早速牛丼を注文する。

「これはどちらかといえば計量社会学かもしれねえが、食ってるもので性格がきまるという統計がある」

「うん」

「この牛丼のウマさには無駄がねえ。肉がぱさついてる、食べられんというのはプチブルの見解であって意外にテタンジェの辛口にあう。それはともかく、飯をかき込む衝動が大事だ」

私達は店を出て、伯父の仕事場である校舎へ向かった。その日はゼミがあるらしく、同年代の賢そうな男女数名を交えて、議論が始まった。

「おい。虚数乗法論の高次元拡張についての谷山豊をふまえてねーな。それに座標に依存しすぎだ」

私は別次元の話に興味はなかったが、急に数学の先生っぽくなった伯父や、先輩のスパイクを受けているバレー部員のような、熱心な態度が教室の雰囲気を熱くしていた。

大学は何となく卒業した。就職先は見つからず、アルバイト暮らしをしている。このままではダメと思う依然に選択肢がない。みつけられない。ふと伯父に電話したら、来いといわれて来たのだった。

ゼミが終わると伯父は私を紹介した――甥っ子だ、珈琲をいれたら世界一。だがなあ、たとえれば今は調和解析における脱出部分の拡散過程のうまくいってない部分だな。

伯父の暗号めいた紹介にゼミ生は笑いを浮かべ「状況的には俺達と同じだな」と一人が呟き、「あらあたしは違うわ」と女子の一人が言って「社会科学の古田です、よろしく」と手をだした。私は皆と握手を交わした。

皆を連れて伯父は渋谷のバーに向かい、2階のソファー席でチップスをつまみながらウイスキーのソーダ割を飲んだ。

「俺のゼミを選ぶ子たちは皆天才を目指してる」伯父は続けて言う。「なあ剛。彼らは皆勉強ではずっと一番だったんだぜ。点数だけじゃなくて頭も誰よりもよかった。でも彼らがなりたい数式の天才になかなかなれないでいる。解ける問題をつくるんじゃなくて、解く価値のある解けない問題を立ち上げて効果的な道筋を残す、そんな天才に俺もなれてない。だがな、俺達は自分が選んだこの世界がきっと俺たち自身を導いてくれることを知っている」

三日滞在して帰宅後も私の生活は変わっていない。私の世界は見つかっていない。いや、食べるものを自分で料理することにしたんだった。さっき明太子パスタをつくったんだ。

私と同じような格好をしていた天才たちもそれぞれに孤独と付き合ってるんだろう、と思った。



Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編