第64期 #11
爪が剥がれてしまったので、医者に行った。
ちょっとした不注意で、左手の親指の爪を柱に突き立てるようにひっかけてしまった。数ヶ月前に心身の疲れから、あまり食事がとれず、そのときの痕跡がくっきりと爪に現れていた。ガタンと真横に一筋、この部分が作られる頃に栄養不足だったのだよと、責め立てるように爪がくぼんでいる。そこで折れるだろうな、と思っていたら、やはり折れた。気をつけているつもりでも、こういうことは、避けられない。
まだ伸びきっていなかったので、生爪が5ミリほど剥がれた。爪が剥がれると破傷風になる。それが怖くて医者へ行った。
「どうしましたか」
「爪を柱にひっかけてしまいました」
私は一応、剥がれた爪を持参した。もげた腕や脚をつなぐように、爪も元通りに戻してもらえたらと思った。
「これは、本当に柱にひっかけたのですか」
「数ヶ月前の体調不良のせいで、ちょっと爪が弱っていたので、そこで折れてしまったようです」
医者はクルリと後ろを向いて、鞄の中から携帯の箸を取り出すと、私が持参した爪をつまみあげた。
「これは、そんな最近の理由で剥がれたわけじゃないでしょう」
「だから数ヶ月前に栄養不足だったんです」
医者は箸の先の爪をライトにかざして観察している。それを広げたガーゼの上に置くと、今度は看護婦に、何かを指示した。看護婦は黙って一度消えると、練り歯磨き粉のようなチューブを持ってきた。医者は床をみつめた。
「これは、鱗です」
医者はそう言いながら、床にかがみ込むと、私の剥がれた鱗を拾い始めた。診療室の床には、鱗が何十枚も落ちていた。看護婦も黙って、菜箸で鱗を拾った。菜箸の方が長いので、看護婦の方が姿勢は楽そうだった。鱗拾いを看護婦にまかせて、医者は持って来させたチューブのふたをひねった。
「この接着剤が良いのですよ」
「接着剤なんか、嫌です」
「大丈夫。これは有機溶剤を使用していますから。あなたの肉体は、有機物でしょう? 弱酸性が肌に優しいというのと一緒です」
「一緒ではありません」
「元通りに戻りますよ」
「魚に戻りたくはありません」
「大丈夫。鱗は下半身だけ貼り戻してあげます」
「人魚になっても、海の泡にはなれません」
「それなら、私が契約を交わしてあげます」
私は黙った。医者は鱗を一枚、箸でつまみ上げ、チューブの接着剤を絞り出した。
私は言った。
「…ありがとう」
医者は言った。
「これが仕事ですから」