第62期 #11

おいしい牛乳

忘れられない犬がいる。

俺がそう言ったら、マコはとたんにSMの相手? と切り返した。いやはや調子が狂う。マスターそろそろアレ、おくれよ、ミルク。ボトルいれるよ。明治おいしい牛乳。

マスターはハイという。ボトルミルクは一本3万円。正確にいえば9割は返済である。それでも3千円!

だったら酒にしなよ、とマコが口を開く。いいんだ、明治ラブ。

それで犬は? 犬? そうだった。

犬はペクペクといった。犬小屋にビニールテープで名前が貼ってあった。長屋の軒先にあった。そう。長屋にはいつも下着の女や七輪で魚焼いてる大家の爺さんや、彼らを撮る写真屋が住んでた。そう。ペクペクは写真屋の犬だった。そこは仕事に行くときの通り道だった。足を揉む仕事。女の足を揉むんだ。

ある日、ペクペクの小屋はなくなってた。

淋しかったの、とマコ。いや、俺一回も見ちゃいない、その犬。いつも尻尾をむけて眠ってた。だから、俺ペクペク知らないんだ。なあ、マコ。触ったこともない。後ろ姿しかみたことがない。でも俺、明治牛乳飲むたびに俺、ペクペク可愛くって仕方ない。俺、マコ。阿呆だった。一度くらい骨付きカルビ持っていきゃよかった。


……と俺は酔態をさらしたらしい。マコの布団は女の甘い匂いがして、気持ちよかった。目覚めて昨夜の失態を理解するのに一杯の牛乳を必要とした。明治でも何でもないミルクよ、ね、ペクペク思いだす? とからかわれ、そういえばそんな犬小屋を覚えていた。いつも冴えない尻尾姿。下着の女と魚焼くジジイ、ライカを崇拝した写真屋。ああ、彼は交通事故で死んだんだ。

「ペクペクの飼い主は死んだんだ」

俺は口に出してしまって後悔した。これじゃあ昨夜の続きじゃないか。でも話さずにいられなくて、聞いてもらった。何のために何が目的で話をしているのか自分がわからなくなっていた。

話し終えると急に恥ずかしくなってきた。

「マコ、俺んち来いよ。付き合ってくれたから飯つくるよ」
「ここでつくってよ」
「何がたべたい」
「パンケーキ」
「材料あるか」
「卵、明治じゃない牛乳、砂糖、膨らし粉、バター」
「ホットケーキミックスじゃないのか」
「じゃないの」

パンケーキは膨らまなかった。マコはクレープみたい、とバニラアイスをのせて巻いた。俺も真似をした。


今はマコも結婚して母親であるらしい。俺は酔うと相変わらず明治牛乳を呑む。牛乳はうまいがいろいろ思い出すこともあって、ちと厄介でもある。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編