第60期 #26

ビルの狭間でかえる童心

昔は歳相応に友人たちとふざけ合うのが楽しかった。チャンバラをしたり相撲をとったり。プロレスごっこではよく相手の手を噛んだこともあった。
今石原の隣にいる山井もその頃からの友人の一人だ。

この前の仕事帰り、同じ会社を経営している石原と山井は一緒に飲んでいた。小学生の頃のお前の必殺技は噛み付きだったな、今もその跡がうっすらと俺の手の甲に残っていると山井が話してきた。山井はその左手に残る跡を石原の眉間の前に持ってきた。石原は顔の前の手をのけながら、あの頃からスルメをよく食べていたからなと小皿に残ったゲソをひとつ取った。
酒飲みだった石原の父は、酔うとよく家族に手を上げた。そんな父親を見て育った石原の心には、家族をはじめ誰にも手を上げないと幼心に誓ったものが今も残っている。今思えばあの頃の山井たちとの遊びは、石原にとって家庭のストレスの発散だったのかもしれないと、石原はスルメを見つめながら当時を思い出した。


都内のある会社の会議室。今そこに仕事の大事な返事を聞きに来た石原と山井は相手方担当の野田と机をはさんで座っている。野田の背中には大きな窓がある。その窓から入った逆光が野田の表情の曇りをより暗くしているように見えた。
「キミ達の気持ちはよく分かるよ。うん。私だってキミ達と今まで付き合ってきた仲だ、ぜひキミ達の会社の製品を使いたいと思っているよ。しかし会社がそうは認めてくれないんだ。どうしてもA社の製品を使わなくては、うちの会社の立場が危うくなってしまうんだよ」
野田はそう言いながら石原たちの方に歩いてきた。石原の隣に座る視線を落とした山井の表情には血相と裏切りへの怒りが表れていた。石原の表情はいたって無であった。石原は山井に比べていつも沈着だった。
「今回は仕様がなかったと思って、あきらめてはくれないか」
野田は左手を座る石原の肩の上にぽんと置いた。
その時石原は首を横に向け、自分の左肩に置かれた野田の手をがぶりと噛んだ。野田はわっと大きな声を上げ手を引っ込めた。左手を右手でさすると甲に歯形がくっきり残っているのが分かった。
野田ははじめて見た得体の知れない物を見るように石原の側頭部を見た。しかし石原はまた無表情のまま窓の向こうを見つめている。
変な空気に包まれた。会議室の中で動くものはなかった。ただ奥で下を向いた山井の背中だけが小さく上下に動いていた。

その時の歯形は今も野田の手に残っている。



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