第60期 #24
扇風機の羽根が勢いよくまわっている。電灯の光が一番届く真下に寝転んで、男は本を読んでいた。卓袱台にグラス。グラスに氷。そこに麦茶。カラカランと揺らしながら飲むのが男は好きだった。
ギーチョン、ギーチョン。
(キリギリスかな。夜なのに)
本を置いて、扇風機を切って耳をすます。鈴虫も鳴いているみたいだった。しおりを挟んで網戸を開けて、うちわをパタパタと使いながらしばらく窓辺で涼んでいた。壁にかかった時計をみるとちょうど9時で、男はそわそわしはじめた。
まもなく木のドアを叩く音。扉の先に、二人の女が立っていて「友達つれてきたよ」と背の高い方の声。「古田です、こんばんは」「木村です」「お見合いみたい。私。吉田です」
卓袱台を囲むように座ると吉田さんは開口一番「キムラーはお酒が入ると呪文みたいなの唱えるのよ。それで女の足と珈琲と古い本が好きなの」と言ってから「私たちおなかすいたわ」と付け足した。
キムラーが台所に立っている間、女二人は男が読みさしの文庫本を手にとった。「私も今朝、電車で読んでたわ。これ読むと半熟卵が食べたくなるよね」「漱石ってなんか包み込んでくれる感じ」「二百十日っていえば風の又三郎もそうじゃない?」
二人が喋っているところへキムラーが戻ってきた。細切りのじゃがいもとピーマンの豆腐炒め、砂肝と人参の煮物、それから半熟卵を持ってきて「俺も半熟卵、食いたかったんだ」と言った。
三人とも酒がいける口だったので、当然呑む。キムラーも弱くないのだが、二人に比べればいつしか目をとろんとさせて「どっどどどどう」と歌いはじめ「俺に読書の快楽を教えてくれた吉田、ありがとう!」と叫ぶと眠ってしまった。酔いがまわり始めた吉田さんも靴下を脱ぎ、あなたもどう? と古田さんを誘った。眠りこんだ男の顔を女二人の足がペタペタと踏みつける。「谷崎の小説、地でいっちゃってる」「こんなのどこがいいんだろ」「飲みながらしましょか」「そうしよう!」
酔っぱらい三人が戯れているあいだ、外は次第に風が強くなってきてどしゃぶりとなった。コオロギの一種で邯鄲と呼ばれる虫が部屋に入り込みリュウリュウと鳴いた。
夢の中でキムラーはなぜか猿だった。海辺でパズルの一片を拾うと宙に浮いた。雲のなかで徳川夢声に会った。「いつか猿となったお前は古田さんを愛する」と夢声は言った。
翌朝何事もなかったように女たちは起きて、男のために珈琲をいれた。