第60期 #17
海を見ていた。
穏やかな波が寄せて、さほど泡立つこともなく、ひっそりと引いてゆく。遥かに目をやれば、空の青とははっきりと色を分けて、青、蒼、藍などと知る限りの漢字を思い浮かべても、表現し得るものは何もない。ただ、海と、空。眺めて、その向こうにまで続く大きな水溜りを思えばそれでいい。くるりと、大地を包んでいるのだと。その先は滝になどなっていないのだと。
「どうしたの、写真なんか眺めて」
途端に、目の前の海はただの写真に変わる。潮の香りは消え、青は木製の写真立てに収まり、僕の手の上に乗っている。ここは自分の家で、僕は小学四年生で、母の言うことは現実的で、けれどさっきまで僕は浜辺にいたのに。浜辺には、誰かが待っていた。海を見て、海と空が溶け合っているのを見て、それから、僕は振り向いて声をかけようとしていたのに。
「海、行きたいの? 今度の土曜ならお父さんも──」
「ちがうよ」
それだけ言うのが精一杯。押入れから引っ張り出したふとんを抱えて、母は、それ以上何も言えずにベランダに出て行った。どんな顔をしているかなんて、見なくたってわかる。子供らしく、うん、海で泳ぎたい、とでも言えばいいのもわかってる。夏休みに家族で海に、なんて、いいじゃないか。
でも、さっきいた浜辺に戻れない。この、これを、どうしたらいい?
いくら写真を眺めても、もう、それはただの写真だった。僕はギュッと目をつぶって、浜辺を取り戻そうとした。潮風を思い出して、海を思い出して、空を思い出して、寄せては返す波を思い出して。でも、いくら思い出しても、海はもう、戻らなかった。できの悪いモザイク画のようにしかならなかった。僕は小学四年生のくせに大人びてるいけ好かないガキで、学校の先生が扱いに困って言ってくるイヤミ以上のものを母はきっと近所の奥様方に言われていて、そして今は夏休みで。そう、今は夏休みだ。
僕はベランダの母に、さっきよりは少し柔らかく言った。
「お母さん、何か手伝うことある?」
ふとんを干していた母は、ぱっと振り向いて、それから、なんとか笑顔になった。笑顔になるまで、数秒の間があった。僕が、浜辺にいた誰かを振り返る気持ちで、普段より穏やかだったからかもしれない。
いつか君が、僕を必要だと言ってくれたなら。ただ、その言葉だけで、僕は僕を埋もれさせようとする現実から、僕を切り離して、君のところへ行く。そう約束しよう。