第60期 #13

続 こわい話

  じゃあ、俺もトイレの話をしよう。
  俺が東京へ出てきたときもやっぱり金がなくて、最初に住んだアパートは巣鴨で三万だった。もちろん風呂はないが六畳だし、三万のレベルじゃ上のほうだと思うね。二階建ての一階に俺は部屋を決めた。二階は家賃が四万だったんだ。なぜかというと二階にはトイレがあって、一階は共同トイレだったからさ。共同トイレというと忌避するかも知れないけど、よく考えたら個人的なトイレを持ったことは一度もない。実家だってじいちゃんやばあちゃん達と一緒に計八人で一つのトイレを使っていたんだから。それに一階には俺と、隣の笹本さんしか住んでいなかったから、純粋に二人で一個のトイレだ。申し分ない。それに、当時の一万円って結構重いものだろう?
 笹本さんとはどういうわけか俺がそのアパートで暮らしている間、一度も顔をあわすことはなかった。挨拶に行っても大体留守だったし、ほとんど見かけたことがなかった。
 さてさて。トイレは和式で狭くはなかった。むしろ広い方だと思う。きれいにしてあったし、特に不自由を感じなかった。君と同じように、鍵が壊れていた点を除けばね。
 君は実家のトイレをノックすることってある?俺には残念ながらそういう習慣はなかった。それで困ることはなかったしね。笹本さんにもそういう習慣はなかった。つまりこういうことだ。
 用足しに立つ。俺はトイレのドアを開ける。そこにはすでに笹本さんがいるわけだ。「あ、すみません……」と俺は言い、「あ……いいえ……」と笹本さんの背中が答える。逆も然りだ。「あ、すみません……」と笹本さんが言い、「あ……いいえ……」と俺はトイレのタンクを見つめながら答える。俺らは顔を合わせたこともないのに、お互いの排便シーンを見せ合い続ける結果となった。学習すればいい。ノックだ。だけどうっかり忘れちまう時に限って、笹本さんが入っているんだ。
 危険なトイレは確かに個人的かつ内情的な恐怖だろうけど、使用中のトイレのドアを不意に開けられるのも、開けてしまうのも、なかなかの恐怖体験だったよ。
 こうして話してみるとやっぱり君とは気が合いそうだ。この店のキールもなかなかいいけど、すごくおいしいワインを出すとこを知ってるんだ。これからどう?なんだ、時間を気にしているのかい?それなら心配要らないよ、君のマンションの近くなんだ。そこから君の部屋がよく見えるんだよ。



Copyright © 2007 長月夕子 / 編集: 短編