第60期 #10

図書室の思い出

「よく映画なんかの批評で注文つけるやついるじゃない。俺はおまえなんかがって思うわけ。純粋に内容への感想だけを書けって言うと、注文を付けたがるんだよね。作品は作品としての人格があり、感想には感想としての人格がある。そういうことじゃないかな」居酒屋のカウンター席で僕の隣に座っているのは、まぎれもなく、あいつだった。あいつが今、僕の横に座って、なんだか訳のわからないことをのたまっていやがる。僕はそれだけでも十分幸せだった。旧友との会話が今の僕には必要だった。「そ、そうだよな」僕は答えた。「第一、一般人っていうのはそもそも賢いものなんだよ。なぜかって言うと、お釈迦様と衆生との関係を大切にしているからなんだ。なのに、神様気取りのバカが居るかと思えば、言葉の意味を自分で調べようともしない幼稚ごっこ、虫酸が走るね」僕はちょっと背伸びしたつもりだった。「言うねえ、おまえも。だいぶまわってきたか。要は誰も悪くない、最初から何もなかったんだよ。そこに山ができ、小川が流れ、海や空や白い雲まで作り上げた、それは誰ですかって話」「誰?」「俺様だよ」一瞬の沈黙の後、僕たちは腹の底から笑った。「ははは、おまえ昔っからそうだったよな。だからあだ名は先生だった。はは、憶えてる?」「憶えてるに決まってるだろ。あれはあれでつらかったんだぜ」「うそつけ、いつも七三分けだったくせに」「てめえ、それを言うなら、おまえにだって罪障はある」「え? なんだって」僕は急にわからない言葉が出てきて笑いが冷めてしまうところだった。「わからん言葉を使うな」「つまり、おまえの罪だよ」僕はその言葉で完全に冷めた。僕はぬるいビールを一息にぐいっとやった。「なんだよ。言ってみろよ」あいつもコップを口に持っていきかけたが、途中でやめた。「中学生のとき、あの図書室を憶えてるか?」「ああ、それがどうした」「おまえは本を読まずに、そこから外の風景を見るのが好きだった」「そうかもな」「あれは四階だったかな、最上階だから眺めは良かった」「ふん、それで」「おまえは握手が心底嫌いだった」あいつがそこまで言ったとき、いつものように僕はすべてを思い出した。そこまででシークエンスは真っ黒な闇の渦になって消え去った。僕があいつの手をとっていれば、あいつは助かっていたかもしれない。僕が老人施設のベッドで見る郷愁を帯びたシークエンスはいつも同じだった。



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