第59期 #5
玲子が深い寝息をたてている。そんなことはおかまいなしのように剛は玲子の二の腕をつねった。
「玲ちゃん」
「ん」
「なあ」
「ん?」
「おもろい話あんねん」
「は?」
「だから面白い話」
「今?」
「今」
玲子は時計をみた。見えなかった。でも外は暗い。夜明け前であることは確かだった。「はよ話して」と玲子がつれなく返事をすると、剛は「あんな」と話し始めた。
「ほら外みてみ。おひさん真っ暗やろ。なんでか知ってる? あれ、おひさん哀しんでんやで。ゼツボーや。ゼツボーって何か知ってるか」
「仕事で毎日ゼツボーやわ」
「ほうかほうか。けど、ワシがあのゼツボーのおひさんをな、なんとかしたるねん」
剛は天井に向って両足をのばし歌いはじめた。
「ぬーしと朝寝がしてみたいー、いろはにほへとーちりぢりにー、ぬーしが食えなくなったらばーララ・ラしーんでしまいたーい」
からっと乾ききった剛の歌声と突拍子もない歌詞の内容が玲子には面白く思われた。玲子はさっきまで夢の中で歌舞伎座にいて、キセルをくゆらす吉右衛門をみていた。とてもいい気持ちのところを起こされたとき、自分が大阪で夫と暮らしていて、随分歌舞伎をみてないことを思い出して少し不機嫌になった。けれど、剛の変な唄を聞いているとそれはどうでもよくなってくるのだった。
「玲ちゃん、みてみ。空、白くなってきたで。おひさんのツラ、白うなってきたで。玲ちゃんのツラも白なってるわー。ほら……面白い、やろ?」
玲子は剛の洒落がよくわからなかった。まさかこれを言うために起こしたのだろうか? アホちゃうか、と玲子は思いつつ、自分がすっかり関西に溶け込んでいることを不思議に思った。外は朝日が昇りはじめていて、ベランダにスズメが集まってきていた。毎晩寝る前に、二人で米粒をまいているからだ。
「玲ちゃん、ワシの太陽も今、おはようサンやで!」
剛は玲子の胸部に馬のりする姿勢をとった。「なんやそれ……結局それかいな。あ、あかんわ、うち、昨日からアレやねんで」
「ほんなら俺のおはようサンどないすんねん!」と剛。しらんしらんと返事をして玲子は台所に立った。カレンダーをみた。
今日は阪神電車に乗って甲子園へ行く日だ。球場には剛のような玲子を面白くさせてくれる人たちがたくさんいる。最近はほろ酔い加減も手伝って、玲子も六甲おろしを熱唱するのが楽しみになった。
「はよ、球場行きたいな」
玲子は呟き、剛は相変わらず発情していた。