第59期 #26
子供の頃に見た映画のワンシーンを今でも覚えている。暗い部屋で膝を抱えて、いや、そうだったろうか。題名はなんだったろうか。僕らはゆっくりと記憶を改竄していく。元々よくないんだ、記憶力は。そういって笑ったのは僕だったのか君だったのか。君は誰だったのか。
画面の向こう、白黒の子供達がそっとキスを。
お世辞にも満月とは言えない、中途半端な丸い月が浮かんでいる。駆け出そうとして止めた。立ち止まり、背負っていた彼女の身体を正しい位置に。表情は見えない。恐らく眠っている。酔いつぶれたんだ。そういうことにしておく。月の明かり街灯の明かりコンビニの明かり。すうすうと寝息。
彼女は前の前の前の前の、生涯二番目の彼女で、恋人の意としての彼女で、歳を重ねるたび広がり続ける人間関係ネットワークの果てに僕らは再び出会うことになった。世間は狭いね、なんて言いながら、十一桁の番号と暗号じみたメールアドレスが彼女の元に届いてしまった事実を僕は嘆くべきだろうか。背中からくしゅんという声。困った。彼女が起きなければ彼女の家がどこにあるのか分からない。僕は途方に暮れる。これがその状態なのだとしたら。
可愛いとか綺麗とか、頭がいいとか優しいとか、そういう言葉は聞き飽きちゃったんだ。グラスを傾け彼女は笑った。本当に彼女があの頃の彼女だったのか、僕は今でも判断できずにいる。重ならないんだ。よく分からない。思い起こせばあの頃の僕は二人の愛を深めるなんてことより、これからやってくる別離のことばかりに目を奪われるようなペシミストだった。公園の木々がざわめいている。象の遊具が鼻を揺らし、池に月の雫が零れる音が。思い出せないことばかりだ。
ねえ、僕らが別れた時って、どんな感じだったのかな。誰にともなくそう尋ねる。
「ウサギがいっぱい」
彼女が呟く。彼女の瞳に僕は映っていない。今、彼女は別の世界に旅立っている。僕は想像する。足下に群がる無数のウサギ。ドロドロの粘液に塗れ、ピルケースからサプリメントの餌を撒いたりして、戻れるものなら完璧な少女に。だが、完璧な少女は得てして少女とは呼べないのではないだろうか。そんな考えとは裏腹に、今の彼女となら幻想の中に閉じこめられていたあのお別れのキスが再現できるかもしれないとも思う。今の彼女の表情はあの時僕が愛した彼女の笑顔に限りなく近く、触れてしまいたくなるほど仄かには愛しい。