第59期 #23

ナガレ

 環状の流れるプールが、市営プールの敷地をぐるりと一周している。彼は私に背を向けて、流れに沿って私から離れていった。
「君はそこを動くな。僕が一周したら、また会えるだろ?」
 私は水底に根を下ろした。流されるわけにはいかなかった。
 私の周囲をいろいろな人間が流れていった。彼らは半ば、何かを諦めたような顔で流れに身を任せている。そんな中、私は彼が戻ってくるはずの航路をしっかりと見据えていた。たくさんの目が私を捉えていた。時々、流れが速くなったりもした。私はよろめき、転びそうになり、そのたびに、無駄なのに、という意味の声が聞こえてきた。私は呼吸を肺にできるだけ溜め込んで、水の中に顔をうずめた。世界の雑音が平べったくなった。
 水中で目を開ける。たくさんの脚が、規則正しい動作に専念している。男性の脚、女性の脚。集団を成してしまったせいで、たくましさとか、美しさといったものがまるで失われていた。ただ、進むためだけの道具に成り果てている。
 具体的数値は分からないけれど、膨大な時間が流れたのだろう。彼は、未だここに戻ってこない。私は他の人と違ってちっとも動いていないというのに。彼の言いつけを忠実に守っているはずなのに。
 息が続かなくなって、水面から顔を出した。まもなく太陽は晩夏の蝉のように力尽きて落ちた。この広いプールのどこかに、激しい水しぶきと共に溺死したのだろう。
 そこにはもう小麦色の行列はなかった。夜の女王が追い払ったのだ。その代わりに、数十本の枯れ木が流れてきた。それらはみんな彼の顔をしていた。怒ったり、笑ったり、泣いたり、驚いたり、愛したり、愛されたり。それでも全部、つくりものなのである。彼は見事な腕の彫刻家で、いつも自分の顔で、心で練習していた。
 私はふと自分の手の平に目をやった。長い間水につけていたせいで、すっかりしわしわになっていた。
 朽ち果てるのね。なのに、私ったら、今まで一体? 
 月光に照らされた、彼の彫刻刀が流れて来て、長々と伸びた根を、ずたずたに引きちぎって去っていった。私は、それはもう思い切り四肢を伸ばして、仰向けになった。
 このプールが環状であることなんか、もはや信じていない。



Copyright © 2007 草歌仙米汰 / 編集: 短編