第59期 #11

パッキン

 手にしたカップに口紅の痕。またか、と舌打ちを漏らしながら、僕は居候の姉の姿を思い浮かべる。だが、三日前に姉は忽然と姿を消したのだった。じゃあお前か? と足元でにゃうにゃう鳴く猫(本当はゲームのキャラからとった名がある)に視線を落とすが、不意に、そうか、これは昨日裕美が別れの言葉を口にした時つけたに違いないと気が付き、なんだが余計に悲しくなった。

 風呂場の隅の黄ばんだ洗濯機をずらすと、白いはずのゴムパッキンはカビで黒く染まっていて、薬品を吹きつけると、次の瞬間、カビの一部がうごめいた。見るとそれは爪ほどの大きさの蜘蛛で、僕は思わず後ずさった。虫は苦手ではないが、なぜか蜘蛛だけは昔から体が拒否反応を示すのだ。ティッシュ越しに伝わる感触も、殺虫剤で暴れ回る姿も駄目なので、殺すこともままならない。だから僕はただ後ずさりながら、風呂場の奥へ移動する蜘蛛を見ていたのだが、そんな僕の足元を、するりと何かが通り抜けた。猫だった。彼は蜘蛛の存在を見つけると、じっと対峙した。僕はそこまで見届けると、スポンジで壁を擦り始めた。すぐに、擦ってもいいものか疑問に思ったが、何も考えまいと、ひたすら無心で擦り続けた。
 相変わらず隣では猫と蜘蛛が対峙している。僕の目には、蜘蛛がまるで切羽詰ってるかのように映った。そうだ猫、お前は強い。主人の俺よりも、攻撃力、素早さ、何もかも上だ。
 だがしばらくすると、猫は風呂場を後にした。戦意喪失? 僕は横目で蜘蛛を観察しながら、さらに壁を擦ろうとして、ふと、なぜ俺は蜘蛛が苦手なんだと疑問に思い、じきに昔の姉の言葉を思い出した。
「サキちゃんが部屋にいた蜘蛛を放っといたらね、次の日の朝、口の中に蜘蛛の子がうじゃうじゃいたらしいよォー」
 まったく馬鹿げた作り話。でもそれにバッチリ影響されている人間がいるのだから、世話は無い。それにしても姉、恋人が来るから必死に片付けたけど、下着くらいは持っていけよ。なんだか恥ずかしいじゃないか。他に誰も見てないけど。でもあんたの布団が敷きっぱなしだから、まだ誰かいるみたいなんだ。そういうのは、なんというか、困る。
 情けない、と呟いた瞬間、スポンジの泡が弾けて目じりに付いた。居間へ行ってティッシュを五枚毟り取り、目を拭う。そのまま風呂場へ戻り、壁にへばりついた蜘蛛を引っ掴み、窓の外へ放り投げる。そして、ただひたすらに壁を擦り続ける。



Copyright © 2007 壱倉柊 / 編集: 短編