第58期 #6

 世は空前の爪ブームだった。きっかけは一人の女優が始めたことだったが、それはメディアとそれに追従することを是とする民衆の間で進化を遂げつつ瞬く間に列島中へ広がった。一昔前に流行った生易しい美爪術の類ではない。爪ピアス、スプリット爪は言うに及ばず、人体の生理代謝機能を極限まで放置し蝸牛のような指先を形作る者、伸ばした爪の先を薄く叩いて楕円形にカットし蟇のように加工する者。今や時代の美の基準は須らく爪だった。A子は常々この潮流を憂いていた。A子は元々深爪だったが、流行の流れの中に先陣を切って飛び込む女子高の級友たちの間で入学時からその一際巨大なつけ爪を外したことはなく、そのため彼女のつけ爪の事実は家族以外誰も知らないことだった。悲劇は昼食時のカフェテリアで起きた。友人が差し出すカップを受けようとした際に何の弾みか爪の先が友人の袖口に引っ掛かりつけ爪が外れてしまった。のみならず、主の手から離れたそれは落下した先に待機していたその友人のカレーライスの中心部に墓標のように深々と突き立ってしまったのである。そうして彼女はクラスで孤立した。肩身の狭い数日間を経た後に彼女は父親の書斎の引き出しから小型のペンチを抜き取って自らの指先に押し当てた。多少の恐怖はあったが既に逡巡も痛痒も感じない。ただプチンプチンというその音が脳裏に心地よく響き反響するばかりである。こうしてA子は全ての爪を失った。翌朝のA子は常ならず誇らしい思いで胸が一杯だった。私は日本国民の誰一人として成し得ないことを成し遂げたのだ。道行く人が皆私の手元を見る。教室に入ると皆が一斉にどよめき羨望と賞賛の入り混じった視線を投げ掛ける。休み時間になると級友たちが一斉に私の周りに集まってくる。教師たちの眼差しもどこか今までとは違う。翌日には噂を聞きつけたファッション誌の記者までもが学校にやってきた。何と心持の良いことだろう。しかし栄光の時は長くは続かなかった。七日と経ぬ内にクラス内に爪を持つ者はいなくなった。町の人々も然りだ。もう誰もA子を見ない。褒め称えない。一人家に帰りドレッサーの奥に封印したつけ爪を手に取って見る。それは何故か懐かしく有難い。ああ。明日はもう一度これを付けて学校に行ってみよう。皆は私を裏切り者と罵るかしら。それとも無視するだけかしら。たとえそうなったっていい。実際爪が無いと不自由なことだって多いのだから。



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