第58期 #21

美空ひばり評

「やっぱり、ひばりはすごい?」
 酔っ払ったうえに風呂上がりで気持ち良さそうな父は、私の突然の問いに怪訝な顔ひとつせず、ただゆっくりと大きく頷いた。
「何がすごい?」
 私は重ねて問う。さっきまで一緒にテレビを見ていた母は、美空ひばりの声の変化に感嘆していた。若い頃の、十代の頃の声から出るのよね、やっぱり天才よ、お墓参りに行くファンが絶えないって、わかるわあ。
 父の言葉を待ちながら、私は、家族でカラオケに行った日のことを自然と思い出していた。父は演歌、母は歌謡曲、私はJ-POPSと、それぞれ思い思いに違うジャンルの歌を歌って、最後にみんなで『川の流れのように』を歌った。美空ひばりの命日だった。
「じょうっかん、かな」
「情感、ですか」
 言葉少ない父の、いや、最近はわりと語ることも多いけれど、それでも余計なことは語らない父の、ちょっと弾むように発せられたその一言から、私は様々な想像を巡らせた。
 父の言葉は厚みがある。奥行きがある。歴史と雑学を楽しむ父の知識は、社会科の苦手な私には越えられない高い山のようだ。それも、挑むようにとがっていない。悠然と連なる山脈のように、父の向こうに見える。登れと挑発するでなく、立ち尽くせと阻むでなく。ただ、当たり前のものとしてそこに在る、山々。
「聴かせてしまう」
「ああ……きかせてしまう」
 私は、また父の言葉を繰り返した。情感。聴かせてしまう。確かに、美空ひばりという歌い手は、客でいて良いのだという安心感をくれる。
 そして父の語る声もまた、深く大きく優しく響く。詰問するような私の声は、言葉は、太陽に敗北する北風のように小さく消えるしかない。父の言葉に感嘆し、その言葉を繰り返すときだけ、わずかに父の温かさを継承しているように思える。

 父はそれだけで、ふらりと寝室に向かってしまった。私に言った言葉など、三日もすれば忘れてしまうだろう。いや、明日の朝には忘れているかもしれない。
 そんな日常のひとこまが、こんなにも豊かに私を揺さぶる。
 じょうかん。きかせてしまう。
 私の中の何かが、そんなふうに人を揺さぶることができるだろうか。
 一人残された夜の中で、私は、私という素材の活用について、考えて続けていた。



Copyright © 2007 わたなべ かおる / 編集: 短編