第58期 #13

チュベローズ

朝かと思えば昼どきになっていて、同僚が用意してくれたトンカツ弁当を急いで食べていたかと思えば、空気がいつのまにか夜へと移行している。

古田さんはヘトヘトになりながらもくもくと書類の整理を終わらせて社屋を出た。

(やっと人間に戻れた)

人間っていいナ、と彼女は思う。

と、同時に働くって好きだ、と古田さんは夜道のウィンドウに映るスーツ姿の自分をみて考える。色めきたつことなどないけれども、働いていると背筋がシャンと伸びてくる。それに給金を貰う月末もやっぱり嬉しいものだった。

(個人であるのと公人であるその合間の時間帯が私は好きよ!)

と、哲学調に思考する過程を古田さんは楽しむのである。

「死にに行く身の後ろ髪、弾く三味線はぎおん蝶ー」

後ろからおかしな節をつけて歌う人物がやってきて、古田さんの肩をポン! と叩いた。

「猿」

古田さんがそう呼ぶと猿と呼ばれた人物はにんまりと笑った。

「あら猿には珍しくジーンズじゃない?」

猿はよくぞ気がついてくれたとばかり、股間を開いて

「お嬢さん、ここ、みてくれるかい? 股のところ、いい感じだろ」
「あら、そうねえ」
「これヒゲっていうんだぜ」
「くたっとしてるー」
「お嬢さん今日はいつもより遅かったな」
「そうなの」
「そろそろ人間に戻れたかい」
「まだ8割しか戻ってないわ」
「じゃあいつものアレあげようか」

猿と呼ばれた男は胸ポケットをまさぐり、一枚の板チョコレートをとりだすと、真ん中からポキッと折って、その半分を古田さんに渡して自分もその半分を手に持って、二人でギンガミをはがした。

「アレ、夏なのに冷えてるわ」
「俺の胸ポケットには冷蔵庫があるのを忘れたかい?」
「ああ、そうだったわ。猿の胸には冷蔵庫があるのね」

古田さんはそう言ってしばらく黙ってから再び口を開く。

「ねえ、私あなたに『ついていけない』っていう気持ちの一歩手前になることがあるわ。あなたが人間のぬいぐるみを着た猿っていうことだったり、胸に冷蔵庫があったり」
「無理があるかい」
「ううん。その危なさ加減がちょうどいいわ」
「じゃあいいさね」

猿は歩道に停めてあった自転車を指差して「今日はあれで来たんだ」と言った。古田さんは猿の乗ってきた自転車に乗り、猿は隣で走った。古田さんのアパートに着くと扉の前にオランダ水仙が置いてあった。

「今晩咲きそうだから」猿が言った。古田さんは鍵をさしこみ、猿は着ぐるみを脱いだ。猿の汗は古田さんがふいた。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編