第57期 #3
見つけたというてんとう虫はすでに動かなくなっていた。背中の中心が軽くへこんで羽が出せないのだった。くっきりと記された七つの黒い星。ツイ子はそれを軽々と拾い(実際とても軽かったのだ)、はじめからなかったもののように四階の踊り場から上空に投げた。てんとう虫はふわりと浮き上がりすぐに下降して行った。
生きて飛ぶ虫の飛行が曲線をつなぐように華麗だとすると、死の飛行線は優れた科学者ってとこね。
感情を込めないでツイ子が言う。
どうして、と聞くと
重力には逆らえない。
「あなたを見てるとむしゃくしゃするわ」
そう啖呵を切られたのが、ツイ子との出会いの最初だった。
特になんの取り得もない私にツイ子が苛立つ事も今ならわかる(が、そのときはただぼーっと立っているだけだったと思う)。
目に見える現象は一度分解されて、ツイ子の頭で組みなおされる。世の中のほとんどのでき事はツイ子によって組みなおされた。唯一、組みなおされなかったのが私だった。
「あなたが何を思って毎日生きてるのかよくわらない」
おおよそ、初対面では取り交わされることのない単語でツイ子は宣言した。さらに、ツイ子はこうも予言した。
「たぶん一生、落ちるということを知らない人なんだ。そして、落ちるということを知らずにしあわせに死んでいくのよね」
「待ってよ」
私はやっと重い口が開くことができた。
「勝手に人を殺さないで」
そんなことをツイ子はもう忘れてしまっているのだろう。相変わらず口は悪いけれど、風邪をひいて寝ているという私のところに、車で一時間半の山道を越えて来てくれていた(寝込んでいたのは一週間前のことだったけれど)。
「組みなおされるほど高度なものではなかったのよね」
ツイ子の横で地面までの飛行線を見届けながら、胸のうちで告白していた。
今朝、パンにピーナツバターを塗って食べ、パンもピーナツバターを塗るスプーンも落とさなかった。パンを乗せる白いお皿もサラダを盛るとき包丁もレタスもクコの実も落とさなかった。半欠のチーズもルッコラも、思い出したツイ子のことも(夕方までは落とさずにいられるだろう)。そういう人生かと思ったとき手をすべらせて、ピーナツバターの蓋を落としそうになった。瞬時にスリッパを蹴り、テーブルの足を支えにして右足を押し付けた。蓋を内側から打ち抜くように足先がぴたりとはまった。そのはるか下方に、フローリングの床が黒々と横たわっていた。