第57期 #14

ブエンディア

 事務所を畳んで一月経つ。マイルスの1stから再生し作業を初め大方片付いた頃には彼は最早僕の理解を超越する音楽を奏でていた。ハル子は相変わらず一階の受付に座って本人曰く幸せな午後における官能的な妄想に耽っていた。隣に座っている小太りの娘(彼女一日にアイスクリームを8個食べるの)とにお別れの挨拶を交わして4年過ごしたビルを出る。ここで開業した時の印象と変わらず眼前の体温の失せたビルの佇まいはゲシュタポの尋問所に見えなくもない。
 メール着信音が鳴る。〈空っぽの貴方の事務所で今私何していると思う?〉
 義父の遺言通り僕は労働することを止めた。月曜の朝からジムに通い僕はバイクを漕ぎながら本を読み料理も以前に比べて随分上達した。日が暮れるとプロジェクターで映画を見た。暇になるとスケッチブックを取り出してG・マルケスの作品群の登場人物の相関図を記憶を頼りに書いてみたりした。それは「北の国から」のそれを書く4000倍は難しい作業だった。当座のお金は義理の弟(彼が製薬会社を引き継いだ。世間の目から見ればやや言われそうだが僕らはなかなか友好的な関係をこれまで保ち続けている)の指示で僕の口座に振り込まれた。それは決して悪くない金額だった。そして僕が何らかの衝動で業を煮やして労働で対価を得るようになるか会社が倒産でもしない限りずっとこの生活が続くのだと考えると不思議な気持ちになった。義父は一体僕に何を求めているというのだろう。
 僕は銀行にいる。先日届いた利用明細書に数回に分けて200万円を何某に振り込んだと明記されておりそれに全く覚えがない僕は止む無く訪れたのだ。シックなネクタイを実に職業的に結んだ銀行員は確かに貴方様からお振込みされていますねと淡々と述べる。
 不安感が僕を包み込む。記憶の欠如。アンビバレンス。何かの偶発的な間違い。あるいは他人の作為。あらゆる疑問を追及した挙句にその銀行員はこういう行為は本当は許されないことなのですがと僕をモニター室に案内する。
「よく見て下さい。これが新堂様がお振り込みされた時の映像です。」
その画面には確かに僕が映されている。僕は何度もATMでの入金を繰り返している。その動作は客観的に見ればただの人の行動だった。でも何かが違っていた。そしてモニターを振り向く僕の顔を見て僕は絶句する。それはまるで僕ではなかった。
「どうですか。どう見ても新堂さんですよね。」
 



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