第57期 #13
「じゃあ、子供たちは理屈じゃない世界に生きているとでもおっしゃるんですか?」僕はくってかかったつもりだった。「そうですよ、それと同じなんですよ、私は。理屈じゃない世界で生きていたいんです。サラリーマンなんて、理屈の塊ですよ。私はあんなものにはなりたくなかったんです」老人はコーヒーカップを両手で包んだまま、少し震えた声でさらりと答えた。僕は納得がいかないというふうな顔でさらに続けた。「この世界では、みんなサラリーマンにならないと生きていけないんですよ」「皆殺しだよ」「え?」「皆殺し」「どういうことですか?」「つまり、生きながらにして皆殺しにされているんだ」僕はますますわけがわからなくなった。「意味がわかりません」「わからなくて当然だ。よらしむべし、しらしむべからず。あんたたちにはわかりゃしないんだ。知ったとしても理解できない、絶対にな」「そんなことはないです」「いーや、そういうもんだよ。現に今あんたは私がぼけていると思っている。握られた右手の中に石が入ってることも知らない」「右手は左手と同じようにコーヒーカップをつかんでいるじゃないですか」僕はこっちもちょっとからかってやろうという気分になった。老人ホームではよくある意味のない会話に過ぎないのだと。「さっきからずっと石を握ってる。あんたには理解できっこないんだ。私が今、青みを帯びた石の結晶をつかんで天にかかげていることなんぞ、あんたにはわかりっこない。その石からはすばらしい青白い光が放出され、あたりを優しく包んでいることすらもな」僕はもう我慢の限界だった。さっさと他の仕事に移るべきだった。僕はもう無視してしまおうと思い、立ち上がってその場を去ろうとした。なんのことはない。よくある状況であり、いつものことなのだ。その時だった。「偽の世界だ」「え?」僕は立ち上がったまま、その場に釘付けになった。「あんたが生きているのは偽の世界なんだよ」老人は僕を見上げて言った。「なんですって?」「ふははははは、あーはははは! 私はこの石によって偽の世界を投影している神に最も近い存在なのだ!」僕は冷や汗をかいていた。なぜって、最近の僕は何をやってもうまくいかず、この世界は偽の世界じゃないかと思うまでになっていたからだ。「お願いです、僕を本当の世界へ連れて行ってください」老人はまっすぐ僕の目を見て言う。「簡単なことだよ。信じればいいんだ」