第56期 #7

ドーソン氏の血脈

「この世界ではずるくて、悪賢くて、粗暴な連中ばかりが生き残るんだ。現に見ろ、この世界を。悪に満ちている。この世界では善などなんの意味も持たないのだ。真面目なやつほどバカを見る。もっとも真面目な人間などもはや存在しないがな。だが、おまえは違う。おまえは神に選ばれた人間なのだ。この世界を救ってくれ」俺は占いなど信じるたちではないし、第一ゆきずりの老人からこんなことを言われたぐらいで心が変わるような人間でもないのだ。「じじいはひっこんでろ!」俺は目の前の相手をぶちのめすことに集中しようとした。路地裏でのけんかには暗闇から声が聞こえることがある。これも薬をやり過ぎたせいで起こる幻聴か何かの類に違いない。だって、じじいなんかここには居ないからだ。居るのは俺の女に手を出したくそったれ野郎だけ。「おい、殴るのはかまわねえ。けどな、宙を見ながら居もしねえ野郎に声をかけるのはやめてくれ。じじいなんかどこにも居ねえぜ。それともおまえいかれてやがるのか?」「うるせえ! これ以上くらいたくなかったらこの街から出て行け」「わかったよ、おまえの勝ちだ。いかれ野郎の勝ちだよ」「てめえ、とっととうせろ!」「はははは、じゃあな、いかれ野郎!」そうかもしれない。俺は別の意味でいかれているのかもしれない。この世界では不条理なことが当たり前になり、いかれていないやつなどもうどこにも居ない。昔、ドーソン氏といういかれ野郎が居た。なぜそれを知っているかと言えば、そいつは俺の親父だったからだ。親父というのは事実だが、実質的には他人に近いやつだったと思いたい。そいつは酒乱だった。どうしようもないいかれ野郎、それがドーソン氏だ。何もかもあいつのせいなんだ。俺がこんなになったのも、すべてあいつのせい。俺は血を拭いながら、暗い路地裏の湿った地面に膝をついて泣き崩れた。やんでいた雨がまた降りだした。膝に小石が当たって痛いのはもはや問題ではなかった。俺はこんなことをするために生まれてきたんじゃない。さっきのやつが俺の女に手を出したというのは俺の妄想なんだ。彼女なんて居やしない。もううんざりだ、妄想に支配されるのは。俺は悟っていた。親父が妄想に、悪の妄想に支配されていたことを。そのとき、また声がした。「息子よ、世界を救うのだ」俺はもうそう言うしかなかった。「やってやるよ、俺はこの世界を救う!」



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