第56期 #26
人生は砂漠なんかじゃなかったよ。
トムは僕に言った。毛羽だったボロいベッドと霜柱みたいに白く痩せ細ったトムの身体は、まるで蜂蜜とパンケーキの関係みたいに親密そうに見えた。
トムは僕に指先で指示を出し、壁から絵を外させ、ソファーの端に座るテディー・ベアをとらせた。僕がクマを放ると、トムは柔らかな綿の内臓からガンを抜き出し、グリップを僕に向けた。餞別さ、とトムは笑った。
サイドボードのパイナップルは熟れすぎていた。
こいつも持っていってくれ。棘に指を押し付け、トムは言った。
ガールフレンドからのお見舞いなんだ。
じゃあ自分で食えよ。
僕がそう言うと、トムは少しだけ寂しそうに首を振った。
こいつを見るとママを思い出すんだ。
僕はズボンの後ろにガンを押し込み、絵とパイナップルを抱えた。
トムが笑った。ジェームズ・ボンドのできあがりだ。僕が見た彼の最後の笑顔だ。
ところで、僕の奥さんは時々おちゃめをする。
ある晩、僕が仕事で夜遅く家に帰ると、僕の奥さんはパイナップルの輪切りでできたブラをつけていた。 僕がブラを褒めると、奥さんは僕の疲れきった目の下にできた立派なクマを褒めた。翌日、僕は五年ぶりに仕事を休み、奥さんと二人でドライブにでかけた。トムが死んでから八年が過ぎていた。
トムのママは、僕を憶えていてくれた。奥さんを紹介すると、トムのママは喜んで彼女を抱きしめ、彼女はおどけて目を回した。
途中で買ってきたパイナップルは、トムのママの手によって、ラムの香りが程好く鼻にぬけるケーキに姿をかえた。
トムの部屋は子供の頃の記憶のままだった。僕はカーテンを開け、陽のあたるベッドに寝転がってみた。トムが最後に過ごした、あの暗く陰鬱なアパートの部屋。あの部屋にも同じものがあった。見上げる天井では、紐で吊るされたいくつもの小さな飛行機が、窓から差し込むやわらかな陽の光りに揺れていた。
別れ際、トムのママは奥さんに紙切れを手渡した。もちろん、トムの愛したパイナップルケーキのレシピだった。
ガンは僕が30歳になった日の朝、庭に咲くアジサイの根本に埋めた。絵は、青空と雲だけのトムが描いたあの絵は、寝室の足元にずっと掛けてある。ただし、そこにはある言葉が付け加えられている。四歳のとき、目を離した隙に僕の息子が書いてくれた言葉だ。そらはおっきい。どうやら僕の息子は、パイロットになるのが夢みたいなんだ。