第55期 #9

森に消える

急に腹が立ってきた。私は叫び声を上げて走り出した。周囲一帯は森だった。夜の森は圧倒的に真っ暗だ。自分の身体を外部と隔てる輪郭線も壊滅的に不明瞭で、緊密に張り詰めた虚空が全的だった。消え入りそうな私は何も見えないでも無理やりにひた走った。走るとそこが道になった。しかしどれだけ走っても、深い闇と幾重にも重なった枝葉の影が不明瞭なアラベスクを成している黒い森の黒い背景がゾートロープのようにぐるぐるとループするだけで、私の焦燥は増すばかりだった。しばらく走ってから気づいた。行頭を字下げするのを忘れた。これではうるさ型の反感を買ってしまう。しかし私はもう走り出している。行頭に戻ることはできない。私は構わずに黒い森の中をどこまでも走った。黒い森はテクストでできていた。そのことは承知していた。私もまたテクストの一部である。だからどこまで行っても森からは出られない。脱出の経路は内部へとより深く分け入るしかない。中心部が結尾部だ。それが物語構造だ。この物語のあらすじは、ある朝<私>が目覚めると家が深い森に包まれていた、というそんな話だ。そして「森」は、直接的には表象不可能なひどく曖昧でありながらなお執拗に連続している私の中のある感覚の隠喩だ。それをとりあえず仮にCと名づけよう。私は密やかにCを書き表したい。だから<私>は狂的に走るのである。けれども私は迂闊だった。作者の意図をそのまま説明してしまった。幼稚だ。恥ずかしい。。。とメタな方向に走っている裡に私はまたミスを犯した。私が<私>として表記するところの私を見失っていた。<私>であるところのそれは、記述よりも速くテクストの彼方へ走り去っていったに違いない。あとには書き出す<私>を見失った私だけが取り残されていた。私は呆然とした。いや、<私>はもういないのだから私は既に私ではない。あるのは森だけだ。だから私は森だ。すると今度は森が走り出した。杉も楓も走り出した。銀杏も走り出した。ぺんぺん草も走り出した。やがてそれらはいくつかの曖昧模糊とした不定形の塊になって、鞠のようにぼよんぼよんと跳ね出し、それぞれがばらばらに隠喩の意味作用からどこまでも離れていった。森も<森>のシニフィアンも消えてしまい、あとに残ったのは夜のしじまだけとなった。私はしじまだ。。。。。(あ、また急に腹が立ってきた……(ああ行頭に戻りたい……(なんだかCって感じだ……



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