第55期 #8
「ハイヒールを履いて、コツコツ音をたてて歩く女にびくついてんじゃねえぞ。確かにあれは音を出して自分がここに居ることをおまえにわからせようとしていやがる、気の強い女だってことは間違いない。だがな、音を出したら死ぬよりももっと恐ろしいことが起こるってことを知らないんだよ。それは何か教えてやろうか? 呪いの繰り返しだよ。連中は音を出したやつを憎み、音を出したやつは連中を憎む。その繰り返しだ。この世界では同じことが繰り返されているんだよ。いいか、いまだに戦争や紛争が絶えないのはそのせいなんだよ。大昔から続いてる人間に染み付いちまった呪いの繰り返し、抜け出すことは絶対にできない。人間から耳がなくならない限りな」天気のいい昼下がりの公園の隅で、市から委託された調査員の僕はこのホームレスのおじさんの話を聞いていた。内容は十中八九妄想に過ぎないだろうと思った。つらい生活を続けているうちに頭がいかれてしまったのだと。僕は仕事上の質問を繰り返した。「誰かに取られてしまったんじゃないんですか?」おじさんは火の付いていない吸い終わった煙草を口からはずして目を見開いて言う。「何度も言わせるんじゃねえよ。これは自分でやったんだ。今じゃ、まったく連中の音は聞こえなくなった。これはこの上なくすばらしいことなんだぞ」僕はそんなことはないだろうと思いながらも深くかぶられた厚いニット帽の中を確かめてみることにした。「じゃあ、ちょっと見せてもらえます?」「ええで」おじさんはニット帽を取った。そこにはちゃんと一対の耳が付いていた。「ほら、ちゃんとあるじゃない。だいたい、僕の声だって聞こえてるじゃないですか」「バカか、よく見ろ」「え?」僕はそのおじさんの耳を注意深く見てみた。・・・穴がない。石のように硬く閉じている。僕は言葉が出なかった。それを見ておじさんが言う。「あんたの声は聞こえる。だけど、連中の音は聞こえないんだよ」「連中の音って何です?」「卑しく、暗い、悪の音だ。この世界にはそんなものがわんさと溢れかえっている。あんたも嫌になったら耳を閉じるといい。すばらしい幸福の世界へ行ける」僕は黙ったままにっこりしたおじさんの顔を見た。しわがあり、髪は乱れ、無精ひげがあり、肌は汚れ、身なりもきれいとは言えない。しかし、おじさんが言ったように、確かにおじさんはすばらしい幸福の世界に居るように見えた。