第55期 #5

闇夜の湖畔

動悸が激しく、口から心臓が飛び出しそうだ。いくら近道とは言え、この道を通るのではなかった。私は後悔した。私は恐怖に震える手を強く握って夢中で走った。
後ろから何かの気配が追ってくる、逃げられない。
そのとき、何者かが私の肩先を掴んで、私に呼びかけた。
「どうしました? こんな時間にお一人で。」
男の声。私は何も言わず振り切ろうとしたが、私の肩先を掴む手は力強く、離れない。
私は恐る恐る振り返った。俯き加減だったため最初に彼の足が見えた。私は少し安心して男の顔を見た。
暗さでよく見えないながらもそれほど男前ではないが、血の通った整った顔立ちをしている事は確認できた。
「どうしました?」
男は心配そうに私の顔を覗き込む。
「いえ、この湖の湖畔に深紅のドレスを着た女の幽霊が出るらしいんです。それで私怖くて、ほんとに怖くて。」
安心したせいか、自然と涙声になる。
「幽霊? その様ですね、でもご安心ください、僕は霊媒師ですから。」
咄嗟の出任せだろうが、彼は私を元気付けようと優しく微笑んだ。
 彼と湖畔を歩いて暫らくしたころ。月を覆っていた雲が途切れ、月の光が辺りを照らした。
「これで少しは明るく成りましたね……。」
彼は微笑んで私を振り返り、私を見るなり何かを言いかけたまま沈黙した。
静寂が流れ、身体の芯から凍えていく。
「どうかなさいましたか?」
私が問いかけると彼は声を殺して笑った。
私は少し不気味になり彼の肩を揺すった。しかし依然として彼は笑い続けている。
「何が可笑しいんですか?」
私が強い口調で言うと彼は笑いながら湖面を指差した。
水面には月と彼、そして赤いドレスを纏った女性が映っている。そして、彼女には足が無い。まるで幽霊。私は凍て付くような恐怖に顔を歪ませて叫んだ。
「きゃあ、幽霊よ。」
そして私はあまりの恐怖にしぼんで消えてしまった。
それを見て彼は笑うのを止め、呟いた。
「いやね、可笑しいじゃありませんか? 幽霊(じぶん)を怖がる幽霊なんて――」
こうして男は仕事を終え、暗い夜道に音も無く消えていった。



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