第55期 #29

蒼穹

 アインシュタインの相対性理論では、人は1000年先まで生きることができたとしても本人が実感できるのは一人の人間の一生分の人生だけのようだ。
 私の話を聞いていた妻が笑った。そんな先まで生きていたくありませんよと。みんなと過ごす、この海が好きだそうだ。
 40年間、東京の商品の先物取引会社に勤め、退職金で海が見える所に家を建てた。妻はかねてから望んでいた尼さんになった。近所に住む方々と仲良くなり、一緒にもぐらしてもらっているらしい。
「あなたも本ばかり読んでないで、浜辺にでも散歩に出かけられればいいのに。海がとてもきれいですよ」そう言いながら私のいる書斎の窓を開けていった。妻はこっちに引っ越してきてからよく窓を開けっぱなしにするようになった。
 家を建てたのと一緒に息子たちへの相続の問題もまとめた。親しい弁護士さんに、私たちにもしものことがあったら息子たちに相続の旨を伝えて頂くようお願いしてある。分け隔てなくしたつもりだが、もめることがないことを祈っている。
 会社を辞めてから私は本に時間をかけるようになった。今いるこの2階の書斎で本を読むのが私の毎日の日課である。前々から興味のあった心理学や哲学の本などを研究している。アインシュタインもその中の一つだ。心理学、自己実現、これまでのこと、これからのこと。生きがいとは何であったかと振り返る。

 ふと、妻が開けていった窓から風が入ってきた。開いていた本がパラパラと閉じられてしまった。潮の香りの、涼しい心地よい風だ。
 外から妻の声が聞こえた。よく笑うようになった。窓の下で、妻が奥さんたちとこっちを向いていた。白い帽子の下に小さな笑った目がのぞいている。うれしそうな目だ。
「あなたも海にいらしません? あなたの顔によく似た魚たちが泳いでいますよ」妻はそう言うと、みんなと笑いながら海へ向かって歩いていった。
 海が輝いているのが見えた。妻たちの笑い声がまだ聞えてくるようだった。私もここを片付けたら海の方へ散歩に行ってみようか。妻たちの採ったサザエでも食べに行きたくなった。日の動きや潮の動き、外の自然の空気と同じ時を過ごす時間。妻たちと一緒にサザエを食べれば、私も笑みがこぼれてきそうな気持ちがした。
 ふと見上げる。空の青は海の反射だ。妻はこの海に来て元気になった。私も曇りがかった心のままではいけないな。

 外に出ると、空がいっそう青く見えた。



Copyright © 2007 bear's Son / 編集: 短編