第55期 #26

 昨日の僕は端たなかったと思う。
 大学時代の後輩の女の子と呑んで、お喋りして、それから別れ際に抱きしめてしまった。彼女はまだ大学生で、僕は社会人だ。入社して二ヶ月も経たず、研修にあえいでいる僕を、彼女は憧れの瞳で見ていた。
「私、もしかしたら先輩のことを」
 と、抱擁の後、彼女はのぼせた唇で云った。僕は嬉しくて胸が裂けそうだった。けど、僕には彼女に対する興味はなく、ただ、人の心が自分のものになるかもしれない瞬間に感動していた。
 翌日の朝、僕は、ベッドから抜け出た。すると肩が重かった。洗顔するため、洗面台の鏡の前に立つ。僕の肩に赤ん坊の顔が見えた。赤ん坊? ちいさなみじかい腕で、僕の首にしがみついている。
「気持ちの整理ができたら、また連絡します」
 と、彼女は云っていたけれど、僕から電話をかけた。

「これ」
 と、彼女は云って、僕にメモを渡してきた。仕事後、僕は彼女と、お客さんの多い喫茶店の片隅のテーブルに座っていた。
「なに?」
 と、僕は云って、メモを見た。男性の名前が書かれていた。赤ん坊の名前だと彼女が云った、誰が名づけたのか分からないけど、ね。
「その子、前に交際していた人の肩にいたんです」
 その前に赤ん坊がだれの肩にいたのかは、分からないらしい。抱き合った時などに赤ん坊は自分で移動するんだそうだ。名前は、今でも昔でも通用しそうな語感だった。昔に産まれる前に殺された子どもかもしれないし、最近に殺された子どもかもしれない、らしい。
「とにかく、赤ん坊は、人から人へと、ずっと」
 と、彼女は云った。
 それから、昨夜のことは酔って混乱していた感情だから、忘れてほしい、と彼女はつけくわえた。僕はためらわず同意した。
「たぶん男の人が恋しくなったんです」
 半年も一緒にいたから、女の人の背中には飽きたのよね。そして彼女は、僕の肩にいる赤ん坊に向かって、あやすように頬笑みかけた。
 僕は気もちわるくなった。僕は喫茶店の窓に、赤ん坊の顔を映した。こうして鏡や硝子に映さないと、見えないらしい。彼女が教えてくれた。しかもそれは、僕の目にしか映らない。彼女には赤ん坊は見えていない筈だった。こんな風に、見えない相手に愛想をつかうだろうか。
 そして、彼女は、
「顔、ちょっと、先輩に似てたように思いだします」
 と、僕に向かってもうれしそうに頬笑みかけた。
 うそだろう。この赤ん坊、きっと、彼女のだ。僕に押しつけた。



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