第55期 #23

彼方の思い出

 彼は一人の女と対峙していた。酷い頭痛が彼を苛み、心臓は杭で貫かれたような激痛を発している。目は霞みかけていたが、まだ女の表情を見分けることくらいはできる。女は他人を見る無関心な目で彼を見つめている。大剣に縋るようにしてようやく立っている彼の姿を。
「俺を忘れたか?」
 彼は自嘲気味に尋ねた。女の視線には相変わらず温度がない。だが彼と女は全くの他人というわけでもない。
「忘れてなんていないわ」
 答えと裏腹に、女はやはり温度のない眼差しを彼に向けている。彼女は昔からこうだっただろうかと、彼はしばし考えた。そういえばそうだったかもしれない。
「わたしに声をかけてくれたのはあなただけだったもの」
 女がぽつりとこぼすように続けた。その声にようやく感情めいたものを感じ、彼は目をわずかに見開いた。
「覚えているのか……あんたが俺にしたことも?」
 重ねて尋ねる。心臓がどくりと音を立てた。激痛も脈動するように形を変え、彼は唇を歪めた。もう長くは持たない。
「覚えているわ。あの日わたしはあなたを殺した」
 女が薄く笑った。十年前のあの日を思い出しているのだろうか。女が彼を殺したあの日を。
「だが俺は生きていた」
 気を抜けば膝から崩れ落ちそうになる。頭痛と心臓の痛みが全身にめぐり、意識を保つのにも集中しなければならない。
「知っていたわ。あなたが生きていたことも」
 女は何を思ったのか、彼に背を向けた。彼が何のために剣を持っているのか知らないわけではないだろう。彼は彼女を殺すためにここへ来たというのに。
「ねぇトラン。あの頃のわたしは分からなかったけれど、今なら分かる」
 振り返った女は微笑を浮かべていた。霞んでいく視界の中で、彼は女の顔を見つめた。
「わたしはあなたを愛していたのよ」
 彼は苦心して、歪む唇に笑みを浮かべた。
「おれもあんたを愛していたよ。昔から、な」
 彼は最後の力を振り絞って、縋っていた大剣を持ち上げた。鞘を抜き捨てる。気を抜くと折れそうな脚に力を込め、彼は駆け出した。距離は長くない。身体の前に構えた剣に、柔らかいものが突き刺さる感触がした。
 剣を伝って女の血が流れてくる。女が緩慢に倒れていくのが分かった。突き刺さったままの剣に引きずられて彼も倒れ込む。もう立ち上がるだけの力はなかった。
「俺たちは、違う出逢い方をするべきだったんだ……きっと」
 呟いて、彼は意識を手放した。



Copyright © 2007 池澤 / 編集: 短編