第55期 #20
浅い海底のような蒼闇の中で電話が鳴る。男は受話器を上げる。
「あ、あの…」
黒い受話器には幾つかの穴が開いていて、そこから女の声が漏れ聞こえる。
「やあ」
「やっと届いたのね」
安堵の吐息に、甘えるような幼い響きが混じる。声は少し遠い。
「初めて?」
「え?」
男の部屋には古い電話機のほか何もない。そういう仕事だ。窓には街灯ひとつ見えない石炭の闇が嵌め込まれて、部屋はどこまでも閉じている。
「ここにかけるのは、初めて?」
「…ええ」
「最初にルールを説明するよ」
「ルール?」
「そう。ルールは一つ。君は昨日の話をする。僕はそれを聞く」
「それだけ?」
「整理されゆく記憶回路に、安息は生まれる」
「なぜ?」
男は穴の深さを女の声音で確かめる。自分の耳の傍に開いている穴の深さを。
「ねえ。どうやって番号を知ったかわからないけど、議論で安らげるタフな人なら他を…」
「ずっと呼んでたのよ。初めてキスしてくれた日から」
受話器の奥の闇に男は記憶を辿る。耳に届く息遣いは記憶でなく身体に吹きかけて、埋み火をかすかに熾した。
「君にキスなんかしてないし、会ったこともない」
昨日とは終わりという意味だ。終わりは終わりでなければならない。今日を揺さぶってはいけない。彼に通じる回線は、終わりを繰り返し確かめるための簡潔な装置だ。
「頼むよ。こんな風に話していることを知られたら、後で僕が叱られるんだ」
長い沈黙。彼女の息が少しずつ遠くなる。二人を包んだ石炭闇に、熾火の朱がまだ消えない。
「昨日の話ね」
「昨日の話だ」
「きのうのけむり」
「きのうのけむり?」
「河口近くの工場の煙突が昨日出してた煙よ。今日という日になると誰もが讃えてやまないの。その過ぎ去った美しさを。工場はそれを缶詰にして売ってるのよ」
「それは良いね」
「本当にそう思う?」
「本当さ」
「缶詰はどうなると思う?」
「さあ」
「私が全部壊すのよ」
「困ったな」
「話はおしまい。今から会えない?」
「何度も言うけどルール違反なんだ。僕は君の話を聞くためにここにいる。昨日の話をね。誰もがそのために僕に電話する。その気がないならもう切るよ」
「バカね。誰から電話が来るって? 今まで一本でもかかって来たの?」
男は電話を待つ仕事について考える。しかし思い出せない。誰と話しただろう。一体誰の電話を待っていたんだ? 受話器の奥で声がゆらめく。
「ねえ。私、あなたのすぐ近くにいるのよ。ずっと前から」