第55期 #12

やる気・元気・渡邉美樹

 中年の男が街中で楽器を演奏するのを見るのは随分久し振りだった。右膝に継ぎのある濃紺のスラックス、ぶかぶかで格子柄のジャケット、目深にかぶった中日ドラゴンズの帽子、と三拍子揃ったルンペンルックの男が、いい加減に爪弾いているのかそういう曲なのか、アコーディオンでやるにしてはやけに音の少ない曲を奏でていた。
 今風のストリートミュージシャンとは違い、足元には缶詰の空き缶とアコーディオンのケースらしきものがあるだけで、CDやライブのビラはおろか名前を示すものすらなかった。家財道具と呼べそうなものも持っていなかったので、外見から受ける印象とは異なり、屋根がある方が落ち着く性分なのかもしれなかった。
「おい、まだ電車に乗っているのか。先に始めているから、着いたら電話を――」
 既に待ち合わせに遅れていたせいで時間にゆとりがある気になっていた私は、留守電のメッセージが吹き込まれるのを聴きながら少し離れて壁にもたれかかり、しばらく男の様子を観察することにした。軽い気持ちで返事をして、いざとなると近況を語るのが酷く億劫に感じられる。この十年、そんなことばかりを繰り返している。
 駅に出入りするエスカレーターの脇という好位置にも関わらず男の演奏に真摯な態度で耳を傾けている者はいなかったが、私を含めて待ち合わせかそのフリをしている内の数人は、時間潰しの見せ物として視線を送っているようだった。体を揺すらないと音が出ないイメージのある楽器だったせいか、俯いて直立不動で演奏する様子からは商売っ気の無さばかりが伝わってきた。
 そのせいかどうかはわからないが、手を繋いだ高校生の男女が男の前に立ち止まった。無造作かつ不自然というややこしい逆立ち方をした髪の持ち主たる男の方は一刻も早くその場を立ち去りたいようだったが、正弦波のように曲がりくねった髪の持ち主たる女の方はさすがに音楽の素養があるのか足でリズムを取りながら演奏に聞き入っていた。
「おい、まだ電車に乗っているのか。西口を出ると見える和民に――」
 携帯電話を耳にあてたまま、若者を前に少し困っているようにも見えた男に歩み寄って缶に千円札を突っ込んだ。
「とりあえずビールでも飲んでくれ」
 そのままエスカレーターに乗ると、ちょうど真上から三人を見ることができた。不意にこちらを見上げた女から目を逸らすと、(東口)と書かれた看板が目前に迫っていた。



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