第55期 #11

茜差す

 初詣の柴又帝釈天の賑わいに浮かれ、私達は露店をひやかしながら江戸川の土手までやってきた。私は甘酒で一息つき、夫はイカのゲソをほおばる。
  川を見下ろすと矢切の渡しだ。趣のある船着場にこれまた昔の写真で出てきたような小船が一艘着けてある。物は試しに乗ってみようと小走りで向かった。しかし乗り込んですぐに私達は浮かれた己を呪った。
 寒い。
 川を吹き抜けてきた北風に、容赦なくなぶられる。甘酒で温まった体など一瞬で冷め切り、夫は風にあおられたゲソで顔中タレだらけだ。陽気のいい頃ならこの小船がモーターで進むことにがっかりしたろうが、今はこれが手漕ぎでなくてよかったと心底思った。震えながら無言で船を降り、そして再び後悔する。他の乗客たちはいそいそと土手に停めてある自家用車に乗り込み、あっという間に去っていった。私達は寒風吹きすさぶ土手に取り残された。至近の駅までは歩いておそらく40分はかかるだろう。
「あ!バス停があったような気がする!」
夫は何の根拠も無い自信に満ちた足取りで、おそらくあると思われるバス停に向かって突然歩き出した。
「考え無しに、あんな船乗るからだよ」という私の悪態は、夫の耳に届く間もなく後方に吹き飛ぶ。
 10分も歩いた頃、ようやく土手下の田んぼの真ん中に、力なくたたずむバス停を発見した。バス停は強風にあおられてがたがたいう。
「本当にバス来るの?」
「来るよ。だってバス停じゃん。時刻表もあるし。後20分で来るよ」
「20分!」
30分歩くか20分待つか。
「20分待つ。これ以上歩いたら鼻が風で取れてしまう」
夫は真顔で言った。
2分で私は音をあげる。
「こんな所で立っていたら凍死する!」
すると夫はいきなりその場で跳ね始めた。
「風に向かって歩いたら、その速度分、風に抵抗して寒さが増す。しかしこういう上下運動なら風に対して無抵抗で温まる」
 常日頃、夫の言うことには懐疑的な私ではあるが、まさに骨の髄まで冷えそうな関東の空っ風に耐え切れず、私も跳ねる。
 そうして私達は畦道の真ん中でぴょこぴょこ跳ね続ける。真冬の午後の日差しはすでに茜がかり、水の張っていない田んぼの土に、長い影がぴょこぴょこ伸びる。ついでにバス停の影もがたがた揺れる。
 やがて黄色い日差しをいっぱいに浴びた、バスが彼方からやってくる。
 運転手は、あれ、お客がいるよとでも言うような、あきれた顔をして私達を見た。



Copyright © 2007 長月夕子 / 編集: 短編