第54期 #14

マッチ売りの心配

 ゼノを呼び止めたのは、大通り沿いの森林公園だった。潮風を街から、恋人たちを羨望と憎悪の眼差しから守るために、その公園は作られた。ゼノはベンチに座って、周りを気にしながら、日課のスケッチを終えたところだった。私の姿を認めると、ゼノは矢継ぎ早に「あと数百歩も歩けば、家に帰れるし、マッチ売りの心配もなくなるんです」とまくし立てた。そして、マッチ売りの何が、ゼノにとって恐れるものとしてあったのか、という私の疑問に答えるべく、回想を挟んでくれた。
「ぼくはマッチ売りが怖かった。『マッチ売りの少女』という童話をご存知ですか。あれを読んだ時の驚きと言ったら、なかったです。ぼくは、マッチ売りというけったいな商売が成り立っていた時代の本を読みたくなって、お父さんに尋ねた。しかしお父さんはマッチを売るのに忙しくて、ぼくに構ってくれなかった」
 ゼノはいささか抽象的な回想を終えると、さめざめと泣き出した。私は、悪いことをしてしまったと思い、ゼノのために数百歩を代わりに歩いてあげると約束した。するとゼノは喜んでこう言った。
「よくある冗談に『トイレに行きたいけど面倒だから代わりにいってよ』『そんなことが可能なはずはない』『ああ、ちげえねえ』というのがありますけど、あなたはそれを可能にしてくれるんでしょうか」
 私はゼノに、質量保存の法則は、ニュートン力学とかそういったアナクロなものを考慮しない人には全然効かないものなのだ、と教え諭してあげた。ゼノはあまり要領を得ていない様子で、スカートの裾をぐるりとやり始めて、
「あなたは、まるで嘘みたいなことを言うんですね。ぼくはスカートなんか履いていませんよ」
と言った。私は、スカートのことはたいした問題じゃないんだ、と、ゼノのスカートを見つめながら言った。
「だから、ぼくは男の子だし、お父さんの女装趣味を受け継いでいるわけでもないんですよ、なんて、お父さんが女装趣味を持っているわけでもないのにこんなこと言っちゃいましたけど」
 私は、すっかり呆れてしまったので、ゼノの手許にあったふっくらとしたパンに一撃を食らわせた。パンは無惨にもへこんでしまった。
 ゼノのスカートが風に舞った。



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