第54期 #12

猫と谷崎と手帳

夕日が涼しい色をしている。人形町の路地を練り歩いていると猫が塀をとんだ。くるんと丸まって立ったときにはもういない。

「とんだ!」

大はしゃぎの私をおぶった看護婦さんの肩のぬくもりを覚えている。私は4歳でもろかった。楽しみといえば野良猫の散歩をみるくらいであとは寝ていた。ほんとに弱かった。あの日、看護婦さんが猫の着ぐるみにならなければ、私は今日人形町にいないだろう。谷崎潤一郎生誕プレートを拝みになど来ていない。

看護婦さんが「にゃあ」と着ぐるみでやってきたとき、指先から腕肩頭背中太腿……ほとんどが猫そのものであったのに、足だけ布がなくてスリッパも履いていなかった。

「にゃおにゃお」とベッドを這ってきた着ぐるみより、はみでた素足が私には猫だった。はしゃぐふりをして土踏まずに触った。その肌色がおいしそうだった。看護婦さんは人間の声で笑って、私をこそばかした。私は揺れる足をじっとみていた。

路地を曲がると事務のアルバイト風の女性と営業風の男性が逃げるように連込み宿へ入っていった。私の高校生のころのようだ。私たちは互いに固くなって黙っていたが、思い切って裸になった私はどこよりも足を舐めた。彼女は何も言わず着替えて部屋から出ていった。私は欲望を封印しなければいけなかった。今日はいろんなことが思い出される。

目的地に近づく。

谷崎を知ったのは大学で知り合った吉田さんのおかげだ。梶井基次郎が好き、とゼミで言ったが私は梶井も知らないし、本は病室を連想させて嫌いだった。でも吉田さんの履く靴がとても彼女の足にあっていてやがて友達になった。思いきって自分の嗜好を告白すると、谷崎潤一郎「鍵」を勧められた。

夫が娘の恋人に泥酔した妻の裸を拭かせる。何よりも「指と指の股をちゃんと拭いてくれよ」と念を押して自分は妻の足の股を丹念に触る……これが日本の小説だったとは!

喫茶店で気を失ったことを話すと吉田さんは「最高」と言った。いよいよ谷崎生誕地がみえてきた。

あれは?

一人の男が座り込んでいて、隣に猿がいた。猿は男に何かを囁いている。男は遠い目をして猿にかまわず、なぜか手帳を抱きしめている。その手帳が命綱であるかのようにしっかりと抱えこんでいる。

死にたくなる薬が処方され、話す猿がいるという東京だ。手帳が好きな男がいたっていい。私も足を舐めるのに躊躇はない。住みやすいのか住みにくいのか。

谷崎潤一郎の生誕地に到着した。

合掌。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編