第54期 #11

ほらふき男爵の憂鬱

 さて諸君、我輩の生涯最大の冒険は……とヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼン氏は集まった客人たちに向かって明朗に話し始めた。私はそのときちょうど彼の談話室に辿り着いたところだった。私は慌てて人々の後ろに席を取ることとなった。皆凝っと耳をそば立てている。これから「ほらふき男爵」の冒険談が始まるのだ。といっても、内容は大抵の人が知っている例のほら話である。それでもそこにいる誰もが興味津々だった。海の冒険の話、月に行った話、戦争の話、狩りの話……がミュンヒハウゼン氏の口から次々と語られてゆく。その様子はすこぶるご機嫌だ。しかし、話の合間に一瞬覗かせる彼の暗鬱な表情を見て取ったのは私だけだったろうか。それを見て取った途端、私の心は胸躍る奇想天外な冒険談から急に離れた。「ほらふき男爵」としての彼の辛い心情に触れたような気がしたからだった。
 そもそも「ほらふき男爵」として今に伝わる彼の話はすべてビュルガーの創作だ。その彼が「ほらふき男爵」のままここにこうしているのはなぜか。「ほらふき男爵」の物語をご存知の方なら、沼に落ちた男爵を男爵が彼自身の腕で引っ掴んで持ち上げるというエピソードをご記憶だろう。それと同じことで、ミュンヒハウゼン氏はほら話の中の自分を自分のほら話として物語ることによって存在しているのではないだろうか。ほらをふき終えるやいなや彼は存在しなくなるのではないだろうか。そうであるなら彼のほらは、虚言症者のそれとは正反対に、徹底的に自覚的な嘘に違いない。嘘と承知の上でしかも止めるわけにいかない醒めた嘘なのだ。
 その晩、それ以上その場に居られなくなった私は、話の途中で早々に退席することにした。彼のことを不憫に思わないわけではなかったが、私にできることはなさそうだった。私には彼の相談に乗ることさえもできそうにない。私の推測が正しいなら、彼は嘘しか言えないのだから、決して本心を打ち明けることができないのである。それは辛いことだ。
 私は、その後二度と彼のほら話に耳を傾ける気にならないのだったが、しかしもしあなたが彼の話を聞きたいと思うなら、彼の邸を訪ねてみるとよい。彼は喜んで例のほら話を聞かせてくれるに違いない。もしかしたら、実際にあなたを胸躍る奇想天外な冒険の旅に連れて行くと言うかもしれない。だから少しでも興味があるのなら、彼の邸を訪ねてみるとよい。私のこの話は本当だから。



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