第54期 #10

 ある深夜。真っ暗な中、右手がどこにあるか分からないくらい冷えていて、それで目が覚めたらしかった。布団から右手だけ出したまま眠っていたのだ。あわてて布団に引っ込めてみたが、布団の中が冷えるばかりで右手は一向に温まらない。
 仕方なく、隣りで眠っている妻を起こさないように起き上がってトイレに行くことにした。
 トイレから出て洗面室に入ると、浴室の入口が開いていて、湯船にはたぶん冷めているだろうけれどお湯が張ったままになっていた。当然湯気は立っていない。
 試しに洗面室の明かりを頼りに浴室へ入り、湯船に右手を入れてみると予想外に温かだった。冷めたお湯でも温かく感じるのは、冷えきっていたせいだろう。凍ったような右手は指先からじんわりと温かくなり、嬉しくなってお湯の中で右手をぐるぐる回す。
 洗面室から入る明かりがまるで月明りのようで、水面でちぎれてきれいだった。しばらくそれを眺めていると、湯船の中を影がよぎる。最初は自分の動かす腕の影だと思ったが、右手を止めても動くのでよく見直してみると、小さな魚らしきものがいるように見える。
 顔を近付けてみる。やはり小さな魚がいる。湯船の中をすいすいと泳ぎ回っていた。
 妻が入れたのだろうか。いや、そんなことはしないだろう。かといって、いきなり湯船に魚が現れるはずがない。
 ともかく桶ですくいあげて浴室の床に置き、明日起きてから妻に聞いてみることにした。右手はすっかり温かくなり、おかげでぐっすりと眠ることができた。
 翌朝妻に、湯船の中を魚が泳いでいたのだがと話してみると、朝食の支度をしていた妻は不思議そうな顔で振り返る。なに言ってるの、湯船なんて昨日私が入ったあとでお湯流しちゃったのよ。からっぽだったでしょう?夢でも見たんじゃないの?
 そんな馬鹿なとあわてて浴室を見に行くと、確かに湯船はからっぽだった。妻も後ろからのぞきこんで、ほらね。と呟いている。
 魚はどこにもいなかった。
 けれど浴室の床の上には、冷めたお湯の入った桶が昨夜置いたままの状態で置いてある。
 以来、まるで子供のようだと自覚をしながらも、深夜目が覚めると必ず湯船を覗いてしまう。未だ、あの魚にはお目にかかれない。



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