第53期 #33

ベイクドケイク

 ふと時計を見ると、もう夜の十一時を回っていた。昼間は会社員などで賑わうこのホテルも、今はただ空しくクラシックが流れているだけ。 そんなシケた雰囲気に包まれたホテルの一角に、本当にどうしようもなくシケた喫茶店があった。その時、僕はそのカウンター席の内側で新聞を読んでいた。四コマ漫画を一分かけて熟読し、大きく欠伸をする。 父親が経営するバーの支店を強制的に任せられ、僕はここに店を設けた。だが、今時疲れきった会社員がバーに立ち寄ることなど滅多に無い訳で、気付いた時には喫茶店になっていた。そんな状況のせいで僕は腐っていたが、飲み物の扱いだけは自信があり、その自信だけで今までやってきた。そういえば昔はソムリエかバリスタになりたかったのだった。
 僕は立ち上がり、閉店準備を始めようとした。すると背後で妙な、本当に妙な気配を感じた。
 振り返ると、そこにはデカイ水筒があった。随分とずん胴な水筒だ。
「まだやっていますか」
そいつは抑揚の全く無い声でそう言った。僕は呆然としながらも、そいつの言葉を必死で聞き取った。
「ええ、まだやってますけど」
 そういえば知り合いのボーイが「掃除機みたいなお客が泊まっている」と言っていた。掃除機、というのが形状を指すのか「役目」を指すのか今ひとつ分からなかったが、こいつに違いなかった。
「注文、よろしいですか」
相変わらず無機質な声で、そいつは言った。閉店する矢先の意味不明なお客の登場のせいで、僕はいささか不機嫌だった。
「どうぞ」カウンターに肘をつき、紙を手にする。
「ブレンドひとつ」
「以上で?」ガソリンじゃなくて?
「それと、チーズケーキを」
「……二種類ありますが」
「ベイクドで」一番高いやつかよ。

 五分後、僕は青い顔で厨房から戻ってきた。
「どうぞ……」
どういう訳かケーキは焦げ、得意のブレンドも失敗気味だった。まあ別にいいやと思いながら、内心そろそろ潮時かなと思っていた。
 器具を洗って戻ってくると、皿とコップは既に空だった。一体どうやって「取り込んだ」のか少し気になったが、いいからとにかく早く帰ってくれ。
 そう思っていると、そいつは急にクルリと背を向け、「ご馳走様でした。夜遅く済みません。美味しかったです」と言って出ていった。カウンターの上には、きちんと料金が置いてあった。
 ロボットにも社交辞令ってあるのかな。そんなことを考えていた僕の顔は、少し紅かった気がする。



Copyright © 2007 壱倉柊 / 編集: 短編