第53期 #29

ドクトル

 恐ろしい三月がやってきた。もう数時間もすれば教室でSを見られなくなる。信じられない。怖い。
 ドクトル。俺は一部女子からそう騒がれている。俺が黒縁眼鏡の成績優秀でそれなりの外見だからか。でも悪いけど俺は男のSを熱心に注目している。
 二つ上の兄貴は俺と違う。運動ができて元野球部。Sも野球部。兄貴の携帯電話にはSの番号がメモリされている。中学校の卒業前日。Sとの長き別れに俺は恐怖した。堪えきれず兄貴の部屋に忍びこむ。兄貴の携帯からSへ掛けた。二コール目。慌てた。失態に気づいてすぐに切った。
 ミトコンドリアが悶えながら子宮を目指して進む雄姿のヴィデオを授業中に見た時、俺は男性の秘めた力に感動していた。けどその映像をSは「気持ち悪い」って言った。そこで耳朶が火照った。中学生女子と言えばいくら大人びていても子供だ。人間の魅力は成熟してからだ。でもどんな成熟もSの持つ無垢で暴力的な輝きには敵わない。自分でたくさん出してるくせに精子を見て嫌悪する傲慢。ドクトルなんて物言いはしない素直。俺の体には備わっていない、あのしなやかな筋肉。
 卒業式。前列に座っていたS。俺は詰襟の内側に隠された膂力を想像しながら眺めていた。もうSに数学や英語を教授することもない。そう思っていたらSが俺を振り返った。「オマエの兄貴から着信あったけど?」忘れてた。履歴が残るんだ。昨晩の混乱が蘇る。しかし奇跡的な冷静が戻ってくる。「Sのこと好きだって言おうと思った」ここでSが黙りこんでいたならば俺は死んでいたかもしれない。Sは式場の体育館いっぱい響くほど笑う。三席分も横に離れていたSの体が波のように俺に近づく。分厚い手を差しだす。「ありがとう。俺もお前のこと愛してる」俺はSと握手した。俺が部屋に一人でこもってシャーペン回しながら参考書やってたころ、Sはマウンドに立って汗臭いチームメイトと一緒に戦ってたんだ。二人は違う。Sが馬鹿な俺の気持ちを理解できるはずがない。
 沈黙を解放したあとの呆然。この手は洗わないでおこうかなんて思った。これじゃ俺を妄想の白衣で包んでいるあの女子たちと変わらない。でも俺と女子が同じなら、いつか俺がちゃんと女を好きになれるようになった時、懐かしい思い出みたいに俺はむかし男が好きだったんだなんて話したら、女は良き理解者になってくれるんじゃないだろうか。なんて考えていたら、変だな涙が止まらない。



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