第53期 #2
「僕は、嘘をつくことが嫌いだし、相手につかれるのも駄目なんですよ。」
男友達と新宿の末広亭で、寄席を見た帰り、一杯居酒屋に立ち寄った。
日本酒をおいしそうに飲んでいる。
熊のように毛むくじゃらな男。
人を真っ直ぐに見て話をする。
言葉通り、本当に正直な人なのだろう。
瞳が澄み切って、吸い込まれそうだ。
この場所まで歩く途中、空を見上げた。
高層ビルの間に月が顔を出していた。
「寄席、初めて観ました。大笑いっていう訳じゃないけど、なんか面白かったです。」
大きなディバッグがゆらゆら揺れている。
私は、落語家達の手つき、物腰、出囃子の太鼓の音を思い返す。
店内は満席。
にぎわっていて、会話がかき消されそう。
マスターは、店員に叱咤しながら料理を出す。
私はその光景に、いたたまれなさを感じる。
「好きなタイプってどんな感じですか?」
「決まっているよ。賢い人。」
これは、本当。
熊は、言葉の持つ意味や自分の気持ちを良く考えてから話すようだ。
長い間があって、
「じゃぁ、今の彼氏はそういう人なんだ。」
私の婚約者は、人の話をじっくり聞いてくれて、誰に対しても公平、道徳心もある。
これも本当。
私の話を熊は、静かに聴いている。
彼は、眼と唇の横にかすかな傷を持っている。
大学時代、車で出掛け、事故にあった。
フロントガラスは割れ、上半身が投げ出された。
記憶は断片的に残っていて、右足の皮膚を、腰から移植し、左足の関節に少し後遺症があるそうだ。
相変わらず、店員の一挙手一投足をマスターは、注意している。
「全く飲めないんですか?」
熊は言う。
何度も使いまわされた言葉を私は、唱える。
そう、一滴も駄目。
飲むと走らずには、いられなくなっちゃう。
それも、場所が決まっているから厄介。
校庭を何度もぐるぐると回りたくなっちゃうの。
これも本当。
熊は、笑う。
私は、ほっとする。
店員にもこの会話が届いて、笑ってくれればいいのに。
「俺、家庭持ってその人と幸せになるのが夢なんですよ。」
いいねぇ、私は最後の一口を飲み干す。
「そう言う人、いつ現れるんだろう。」
「良い子見つけてあげるよ。」
私がそう言うと、彼は店員に勘定をお願いした。
帰り際、大きな背中を見ながら寂しい気分になる。
私は、自分に嘘をついていると確信する。
出来れば、このまま一緒にいたい。
本当は、完全に彼の瞳に吸い込まれている。
彼の誠実さ、健全さが胸に痛い。
バラバラになりそうな気持ちを抱えて、月夜を歩く。