第53期 #17

湯豆腐

「あーる晴れたひーる下り、ドナドナドーナドーーナ……ちょいとお嬢さん、茄子が一本落っこちてる」

「つきはかっくれてあっめとなり、あめまたゆっきとなりしかなぁ、なくもわらうも、なくもわらうも……いやあ小唄をうたっているとなんだかいい気持ちになる。どうですか、お嬢さん、あたしと一緒に湯豆腐でやりませんか」

「花が咲く前の、梅の木の曲線がネ、実に姿がいい。あたしは夜更けごろ、たまに月明かりに照らされたそいつを眺めながらウイスキー入り珈琲を飲むんですが、何もかも忘れちまう」

老人はよく喋った。一人で喋り続けて、途中から小唄をうたったかと思えばシューベルトの「冬の旅」を原曲で歌った。とうとう座布団を枕に眠ってしまった老人を前に、なんだか可笑しくなって古田さんは笑った。

その日、古田さんは突然人生が嫌になった。嫌になった! と夫に言ってみたものの「俺も嫌だ」と素気ない。そもそも夫の浮気を見て見ぬふりをしていることに気がついていない。

それで古田さんは唐突に東西線に乗って荻窪へと向った。(どうして荻窪へ?)と自問しながらふらふらと町に降りたのである。目的地などない。くねくねと続く道を適当に歩いていると巨大な商店街モールにぶつかって、そこに八百屋があった。必要もないのに茄子と葱を買い、その茄子を落としたところに老人が現れたのである。

「犬も歩けば、とある。ジジも歩けば茄子を拾ってその先に別嬪にぶつかるという話もないことはないさね。どうしたい、ふてくされてるじゃないか。お嬢さん、映画に行かないかい」

老人はのっけから可笑しかったが、成瀬巳喜男の「舞姫」を観ながら<岡田茉莉子は美しすぎる……>と何度も呟いているところなど、頭もおかしいと思えなくもない。家が近くにあるということで、古いボクシングジムの隣の民家まで結局古田さんは付いていって、晩酌まで付き合っていたところである。

老人が眠ってしまったので、古田さんはぼんやりと庭に出て梅をみた。花は咲いていて、咲いた梅の方がやっぱり好きだと古田さんは思った。

古田さんは結婚をする前に本物の猿と付き合っていたことがある。猿は人間に着替えてどこかへ去ってしまったけれど、ふと老人があの猿のような気がした。

「梅はさいたか、桜はまだか」

振り向くと老人が珈琲カップを差し出した。樽の香りがしないでもない。古田さんは一言、猿、と囁いた。老人は「へへへ」と笑って珈琲をすすった。





Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編