第53期 #11

眠らない羊飼い

 冷たい夜気が昼の喧騒から解放されて澄み渡り、耳をすますと遥か遠くの大気が揺れる音まで聞こえた。
 静穏。しかし――、
 大気の鳴動は次第に激しくなり、だんだんと近づき鳴り響いた。
 それはもう、うるさいほどに。
 どどどどどどどっ!
 怒涛の地響き。
 白く霞んでいた物体が、地平の彼方から猛烈な勢いでやって来た。
 猛烈な羊の群れ。
 羊が1匹、羊が2匹……羊が何千何百何十何万匹だ。
 あっという間に町を埋めつくした羊は、シープドックに追われ、無我夢中で逃げ回っている。
 めえめえ。
 群れに一頭だけいる黒羊に跨った羊飼いの青年が角笛を吹いた。
 シープドッグが動きを変える。
 ぽっぽこ、と羊が逃げ回る。アスファルトをカリカリ、ビルや民家に潜りこむ。
 オフィスで、ぽっぽこ。
 居間で、ぽっぽこ。
 寝室に逃げこんだ羊が、寝ている赤ん坊の頭を軽やかに跳び越えた。
 羊が1匹。
 天井を眺めている不眠症の男の目の前を、
 羊が2匹。
 喉の渇きに目を覚ました女の横を、
 羊が3匹。
 ぽっぽこ、めえめえ。
 黒羊に跨った青年は高層マンションの屋上に降りると、群れを見下ろしながら、シープドッグに命令を出した。羊の逃げていく方向を確認し、青年は黒羊の背から荷物を降ろした。海原の移動で汗臭くなった服を脱ぎ捨て新しいシャツに袖を通す。金盥の中に貴重な水を注ぎ、洗濯を始め、片っ端から干していく。
 干し肉を齧り、引っ張り出した毛布を被りながら、読みかけの小説を開く。
 青年が自由にできる時間は3時間しかない。3時間後には、群れとともに何千キロという距離をまた移動する。
「また、そんな格好で本なんか読んでる」
 コートを羽織った女がマグカップを持って立っていた。青年は困った顔つきで女を見た。
「君のために羊を百頭も増やした」
「無駄だと思う。ここに、あなたがいるんだから」
 女はマグカップを青年に手渡した。青年は砂糖の入ったミルクに口をつけた。
「きっと眠らせてみせるよ」
「ええ。でも、ミルクが飲めなくなるわ」
 青年はマグカップに視線を落とした。砂糖入りのミルクが湯気を立てていた。
「それでも、君は眠らなきゃ」
「ええ」
 黒羊が、めええと鳴いた。それが合図であるかのように、女は毛布に潜りこんだ。
「少しだけ、ね?」
 耳元で囁く女の声に青年は頷いた。女は青年に頭を預け、いたずらに羊の群れを数えた。
 羊が1匹、羊が2匹……。
 数え切れない羊を数えた。



Copyright © 2007 八海宵一 / 編集: 短編