第52期 #18

風の街

 山間に位置するこの街は風の通り道である。四方の山から吹き降ろす風が東から西へ、北から南へ、時にそれらが同時に、休みなく吹き荒れている。春には花弁が、秋には紅葉が飛び乱れる。暴力的な風に為す術もなく弄ばれる花や葉を見るのは心地良かった。それは、たとえ自然であっても抗えぬ上下関係があるということを私に見せ付けるのだった。

「俺はこの風に乗って街を出る。ふつうのやり方じゃあこの街から出ることはできない。ようやくそれがわかったんだ」
 男が初めて街を出たのは十五歳の時だった。行き先も決めず自転車を走らせた。しかしどこをどう走ったのか、気付いたときには街の入り口に辿り着いていた。その後も何度か街を出たが、様々な理由からいつも結局は街に帰ってくることになった。街を離れられないのは自分の意思ではないと男は信じていた。それは街の意思に違いないと男は言った。呪いのようなものだ、と。
「メアリー・ポピンズを知っているだろう」
 男は工場の裏に積み上げられていた廃材を使って大きな傘を作ろうとしていた。私は錆び付いたドラム缶に腰掛けてその作業を眺めていた。
「彼女はまるっきり自由に見える。まさに、俺が今一番欲しいものさ」
 男をこの街に引き留めようとする見えない力が本当にあるとして、一体どうしてこの男のような人間を街に留めておくのだろう。私は男のことが好きではなかった。口を開けば街についての愚痴ばかりだった。酒に酔うと、かつて一時期だけ暮らしたことのある外の街の話をした。その話をするときだけは目に嬉々とした光が灯った。
 工場の娘が赤い風船を持って私たちのもとへ駆けて来た。姉ちゃんこれ、と娘はその手を前に突き出した。きれいだね、と私が言うと、ヘリウムなのよ、と誇らしげに笑った。その時、一陣の強い風が吹いて娘の手から風船をもぎ取っていった。ゆっくりと旋回しながら、風船はみるみる小さくなって灰色の空へ吸い込まれていった。風船は山を越えて飛んで行くだろうか。頬に何かが当たり、私は反射的に目を閉じて顔を背けた。再び空へ目を戻したときには風船は視界から消えていた。雨、と娘が呟いた。
「雨なら傘に入ればいい」
 男の傘は作りかけだったが、それでも私たち三人が入ってもまだ余裕があるほど大きかった。私は透明なビニールに雨が描く不定形の模様を指でなぞりながら、雲の上で風船が太陽の光をきらきらと反射する様子を思い描いていた。



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