第52期 #11

切山椒


「東京では猿が話すげんて!」

友人の水上がやってきて開口一番叫んだ。

「東京では何でもおこりよるで」

囲炉裏で眠っていたはずの婆が言った。俺は黙っていた。水上は帰ったようだった。再び婆は眠り、俺は気づくと家を出ていた。

数日後、俺は浅草にいた。しかし猿は一匹もいない。「猿、いないけ?」と聞いてみようと思って雷門の前に立っていた女性に声をかけた。

「猿はいませんか?」
「猿?」
「東京に猿がいるって聞いて、俺田舎から来たんだ」
「猿の話はしないで」
「え?」
「しないで」

俺はただ頷いた。女性は足早に去っていって、俺はひたすら途方にくれた。

「ほら」
「あ」

ぽんと肩を叩かれて振り向くとさっきの女性が立っていて、菓子をくれた。「切山椒」というそうだ。遠慮なくもらった。いい匂いがしてうまかった。

「喫茶店でもいかない?」

彼女は古田と名乗り、二階建ての古風な喫茶店へ向った。古田さんの勧める珈琲は梅酒割りの珈琲だった。それを飲んだ俺は東京に猿がいるのも最もだと思ったが何も言わなかった。俺たちはお互いの好きなものについて話した。俺がひじきと油揚げばかり食べてる、というと彼女は笑った。古田さんはドーモ健という写真家が好きらしかった。

「彼の、内面に土足で踏み込んでいくのがいいの」

と古田さんが言ったとき、俺は思わず「猿のように?」と問い返していた。すると彼女は立ち上がって手洗いへ行き、そのまま戻ってこなかった。何か機嫌を損ねてしまったらしかった。ただ、古田さんは手帳を忘れていった。ファイロファクスと読める英字の手帳だ。


「……それでおめえ、それ盗んだがか?」

水上は興奮して訊いてくる。

「いや、置いてかえった」

嘘をついた。俺は手帳を届けるつもりで持って店を出た。手帳には連絡先がどこにも書いてなかった。結局届ける術を失ったまま今でも机の引出しにある。

唐突に婆が目を開き「東京は危険じゃ」と言い放った。野次馬の水上はとっくに帰っていて、俺はやるせなくなった。

実は浅草を出た後、俺は猿に会っている。闇雲に町を歩いていると路地に入って、谷崎純一というどこかで聞いた名前が彫られた碑の前で座っていたときにやってきたのだ。猿は「河豚食いたいねえ」と俺に言った。返事をしないでいると、人間の着ぐるみをきてどこかへ行ってしまった。東京にいると猿が話すことは珍しいことではなくなる。

俺は猿よりも、もう一度古田さんに会って手帳を返したいと思った。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編