第51期 #8
振り返れば見渡す限りに広がる田園に陽が落ちて、世界のすべては黄金色になる。前を向けば、なだらかな丘陵の遥か遠く 凪の海が見える。涼しい風が吹いていた。紫の雲がまばらに低かった。
海から延び、丘を越え、田園を横切る一本の線路があった。その線路の傍らに立つポプラの幹に、一人の牧童が背をあずけ海の方をながめていた。牧童は、彼の粗末な身なりに似合わない 乳色の絹布でくるんだ赤子を抱えていた。赤子は顔を牧童の胸にうずめていたが、先ほどから動物のような声で泣いていた。泥で汚れた牧童の顔は赤子を向かず、ただ無骨な手が赤子をあやしていた。
レールには何度か列車の通った跡があったが、敷石は整然と詰められ 枕木は真新しかった。誰が整備しているのか 牧童は知らない。
どこかで蒸気の高鳴る音がした。牧童は立ち上がり、絹布に巻いた赤子をしっかりと抱いた。列車が決して好ましいものばかりでないことを彼は知っていた。好ましくない列車だと、不意に客車の窓から鉤のついた棒が伸びて赤子を引っ掛け連れ去ってしまう。
赤子は五ヵ月後に町へやられる予定だった。それまで彼は、赤子を守らなければならなかった。
丘の向こうから耳を叩く音が聞こえてくる。黒い機関車だった。牧童は、ひどいにおいに赤子が咳き込まぬように注意深く抱いた。
列車が叫びながらレールを行く。噴き上がる蒸気の音 列車が走る時にわきたつ特有のにおい 車輪が巻き上げる砂と風 牧童の半目に客車の窓からぶら下がるバスケットが見え、彼は夢中で手を伸ばす。残忍な車輪は今一歩のところで牧童を殺せず、彼の粗末なシャツの一部をかすめて行った。それだけだった。
遠ざかる機関車の尻はいつも滑稽だと、牧童は思う。赤子の絹布は真っ黒だった。牧童もまた煤で汚れた。彼は服の裏地で手を拭い、バスケットを開けた。美しい食事と、美しい絹布が入っていた。牧童はほっとしたように膝をつき、再び念入りに両手を拭ってポプラのそばにすわった。
田園は夕暮れだった。牧童は、赤子が五ヵ月後に行く町のことを何一つ知らなかった。しかし彼は赤子とともに町へ行くことはできない。赤子を送り出すまで守り育てることが彼の存在理由だった。
牧童は赤子から、汚れた絹布を剥いでいく。よく肥えた小さな手が彼へ向けて伸び上がる。顔は魚の幼生のように醜くのっぺりしているが、牧童にだけは赤子が笑っているとわかるのだった。