第51期 #25
街灯のない細い路地を雨が漆黒に染めている。先の方が右へ折れた舗道の角で、きい、と小さく湿った音がして、古びた木枠に磨りガラスの嵌めこまれた薄い扉が開くと、背の高い痩せた女が現れた。そこは廃業した個人医院で、女は白衣の上に色の濃い上掛けらしいものを羽織って傘も差さずに歩いてくる。俯いた顔は暗く表情は判らない。私は喉のあたりが重く痛むのを感じた。
開業医と若い愛人を、その医師の元愛人だった看護婦が殺害して自殺したという数年前の事件を私は思い出した。ちょうど今夜のような雨の降る秋の宵のことであった。私は舗道を踏む靴の感触が雨に呑まれて薄く消えるように感じ戦慄した。
歩み寄る女の細い体は白く浮きあがり、俯く顔は反対に闇に沈んでいる。看護婦は退勤の直前に、新しく医師の寵を得た若い看護婦を診療台に縛りつけメスで何度も突いた。雨はやまず薄いガラス窓を打ち、雲に隠れて下りた夜の帳が寂れた医院を黒く塗り込めていたという。警察が来た時はすでに看護婦の姿はなかった。彼女は自宅の玄関で咽喉を突いていた。血まみれの白衣に長い黒髪がまとわりつき、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
かりそめの恋を彷徨う男女の行為は影から影へと飛び移る子どもの戯れのように儚く残酷なものだが、こうして女と向き合っていると、禍いを連れて取り残されてしまったその影の濃さに呑まれるようで私は不安を覚えた。女と私の佇むあたりの地面がひときわ黒く濡れている。靴は依然として舗道の硬さを伝えない。だらりと下げた女の右腕の先に雨粒が伝い、闇のなかで小さく光った。あの夜看護婦は、ほど近い路上で往診帰りの医師を見咎めた。執着を語る涙に返り血を洗わせ、頬をまだらに伝わせた異形で抱擁を求める女を医師は振り払った。男は影を重ねて刹那の喜びを求めるだけの虚ろな影であった。女は呪詛のように愛の言葉を叫びながら影の喉にメスを突き立てた。
傘を打つ雨の音に紛れて低い声が私の耳に届く。眼前に在る影の、唇の形に空いた穴から聞こえる呪詛をかつて何度も繰り返し聞き、一字一句覚えていることに私は気づいた。喉が強く痛みだし、私は鞄を取り落とした。往診鞄は音もなく雨の路上に消えた。私は自分がひとつの影に永劫の刻を囚われ続ける虚ろな影であることをその時ようやく思い出した。虚無を孕んだ黝い眼窩が私を睨みつけ、右手のメスがぎちぎちと糸に吊られるようにまた振り上げられた。