第50期 #3

私達は湖を眺めていた

亭主は、起床と帰宅後、必ずTVをつける。
神への儀式のような行為。
情報は、大切だよ。
流れてくるのは、
子供への虐待、国同士の戦争、殺人、
政府の動き、芸能人の結婚・離婚。

食事中でもその儀式は行われる。
食べ残したものは、速やかにごみ箱に消える。


私達は湖を眺めている。
木々に囲まれた静かなこの場所で。

彼は何を考えているのか。
私はそっと、横顔を見る。
風が髪を揺らしている。
彼は視線に気付き、長い指先で、
私の手を優しく握る。

獣達は、一体どこに潜んでいるのだろう。
じっと息を潜め、機会を狙っているに違いない。

少し不安になり、空を見上げる。
空はどこまでも澄みきっている。
彼は、ただ真直ぐに湖を眺めている。


私は毎日、亭主が食物を咀嚼する様子を見る。
出来ることなら、あの静かな場所に行きたいと祈りながら。

食べ残しで溢れたゴミ箱。
いつしか、亭主の口からは、食べ物を咀嚼する音しか聞こえない。
毎日続く騒音の中で、言葉を失くしてしまったのだろうか。

ある日、私はおもむろに玄関にあった自転車空気入れを
大きく振りかざした。
情報の詰まった巨大な箱へ。
何度も何度も。

遠くで女が絶叫している。
こんなもの、無くなってしまえと。

静かだった湖は、いつしか荒れ狂い、
波立っていた。

澄み切った空は淀み、赤い雷雨が見え、
無数のカラス達が飛び交っている。
獣達がそろそろやって来るだろう。

対岸に彼は、悲しそうな顔で私を見つめていた。
もう流す涙さえも私には残されていなかった。



Copyright © 2006 美鈴 / 編集: 短編