第50期 #22
会社からの帰り道、男は電車の席に座っていた。夜も十時を回る頃で、車内はそれほど混雑していない。停車駅に着き、彼の隣の座席が空いた。
すると、その席に制服姿の女子学生が腰を下ろしてきた。顔立ちは多少キツいけれど、学年でも屈指の美少女に違いない。膝上の短いスカートからすらりとした脚がのぞいている。彼女は通学鞄と別にクリアケースを持っていた。浪人経験のある彼は、たぶん予備校帰りなんだろうな、と思った。
電車が駅を出てから少しして、彼女は数学のノートとテキストを取り出し問題を解き始めた。次々と問題を解くスピードに彼は目をみはった。だが、彼女の書いた答えの中には時折ミスが混じっていた。理系受験だった彼は、その間違いを指摘してあげたくなった。――あの公式を使えばもっとスマートに解けるのに。
「なんですか?」
ノートを眺めていた彼は、その台詞が自分に対するものだとなかなか気付かなかった。顔を上げると、彼女が彼を睨んでいた。他の乗客たちも何事といった様子で二人に注目している。
「あ、えーっと」周囲の視線を集めて彼は口ごもった。そしてその後、笑顔を作って言った。「いや、理系受験なのかなーと思って。受かるといいね」
とっさに思いついた言い訳にしては上出来だ。こうやって見ず知らずの人間を応援してやれる自分の優しさに彼自身が驚いていた。いつもの自分なら、思っていても口には出せない。彼は突然自分が神の慈愛を獲得し、彼女を祝福しているような気分になった。
彼は想像する。少しはにかんだ顔の彼女が「ありがとう」と言う瞬間や、「どうも」と目を伏せる瞬間を。
しばらくの間、彼女は彼のことを無表情に見つめていた。それからゆっくりと口を開いた。
「……あたしに関係がないからそんな適当なこと言えるんですよね?」彼女の台詞は彼の予想から大きく外れていた。現実は全く違っていた。
「あたしが受験失敗したら慰めてくれるんですか? それがショックで自殺しようとしても止めてくれたりするんですか?」
彼女の鋭い言葉を前にして、彼は何も反応できなかった。
「答えられないんなら、無責任なこと言わないでください」
彼女は素早くノートをしまい、そのまま席を立った。そしてドアの前へと歩いていく。
「あのさ……」彼が呟いた。
「まだなにか言いたいことあるんですか? 偽善者さん」
彼女は振り向き、左頬を歪めて微笑んだ。
「次の駅、降り口逆」