第50期 #16

『テレフォン・ワルツ』

 月さえもまどろむ時刻。
 杉村香織の眠りを梳いたのは、『天才バカボン』のオープニングテーマだった。                      香織が携帯の着信音に、こんなふざけた曲を設定してから、もう二ヶ月になる。香織は、まるで柳の枝にいる猫を弄るようにして、サイドボードの携帯電話をつかんだ。明滅するディスプレイ。そこに映し出された表示はけれど、健二ではなく《内田部長》の文字だった。 香織はベッドに沈み込み、左手で額を押さえながら通話ボタンを押した。
「もしもし杉村です」
「あ、杉村君?こんな時間に申し訳ないね。内田ですけど。寝てた、よね?」
「何かあったんですか?企画書の件なら」香織は寝返りをうち、眼鏡を掛けた。
「うん違くて、えっとぉ、杉村君、学生時代にダンスやってたって言ったよね?」
「ダンス?ですか?」
「そうだんす♪」
「・・・?」
「あ。今のはね、『そうザンス』と『そうダンス』を掛けてみたん・・・」
「ええ。やってました」香織はむっとしてベッドから身を起こし、時計を眺めた。れっきとした夜明け前だ。
「うふっん。えぇと、それでね、頼みなんだけど。ワルツをね、教えて欲しいんだ」
香織は頭を抱えたままキッチンへと歩いた。
「あのぉ。私がやってたのはヒップホップで、ワルツはちょっと。三拍子ですよね?」
「三拍子?三拍子ってなんだい?」
「ズンチャッチャーズンチャッチャーみたいなやつですよ」香織はため息とともに、グラスに注いだ水を飲み干した。一人だけのキッチン。グラスの中で転がる氷の音が響く。
「ああ解った。チムチムニーチムチムニーか」
「たぶん違うと思います。曲で言えばショパン、シュトラウスとか。部長、私の知り合いに馬場で社交ダンスを教えてる人がいるので、出社したら連絡先を教えます。それでいいですか?」
「うーん。あ、それで構わないよ。頼む頼む。いやぁーでもなんだかワルツってエッチな・・・」
 香織は素早く「失礼します」で切返し、通話を切った。
 一度は放り投げた計帯電話。もう一度それを手にとると、香織はベランダに出た。下弦の月が、香織の髪に細く静かに光を落としている。金属の手すりにもたれ、冷たく澄んだ風を頬にうけながら、青く目覚め始めた街を眺める。そしてその向こう側で、まだ眠っているだろう健二のことを、香織は想った。太陽が西から昇ってくれる日が、いつか訪れることを願いながら。 



Copyright © 2006 安倍基宏 / 編集: 短編