第5期 #6
木陰の中で、彼はある決意を秘めて彼女を待っていた。
それは彼の熱い思いを抑えるには堪らなく長すぎる時間だった。いや、思い出を振り返るには、あまりにも短かすぎる時間だったかもしれない。
彼の横顔を撫でる木漏れ日がいつの間にか赤みを帯びて淡く儚くなってきた頃、乾いた風の香が、その道のはるか先にやっと彼女を運んできてくれた。その小さな姿は、両手で上手に包みこんでしまなければ、すぐに消えてしまいそうな陽炎のようだ。
彼女の家へ続くこの長い一本道から、今日こそ彼女を奪い去っていくつもりだ。それが長い時間をかけてたどり着いた彼の結論だった。
ところが、彼は急に動けなくなった。彼女の事をその遠景ごとそっくり大切にしたいという思いが、今になって彼をためらわせたのである。
「あら」
彼女は小さな声を出した。
その時、一瞬逡巡する彼の背中をぽんと押した者がいる。天使だったのかもしれない。
気がつくと、彼は彼女の目の前に立っていた。
慌てて後ろを振り向いてみたが、もちろんそこに誰もいるはずがない。そういうしぐさは、まるで初恋の苦しみに胸が潰れそうになっている少年のようだった。
もはや、どこにも逃げられなかった。
「帰ってきてくれないか」
あまりにも唐突な問いかけである。彼女は笑っているしかなかった。
彼はその透き通ったような笑い顔がいつもたまらなく好きだった。
彼らの気持ちはすでに通じ合っている。彼女には彼の言いたい事が分かっていたし、ふたりの間の問題が何なのかも分かっていた。
「君とはいつも誤解の連続の中で暮らしていた。でも君を失って初めて分かったんだ。君ともう一度やり直したい」
「でもあなたは、いつだって逃げているわ」
彼は叫ぶように言った。
「もう逃げはしない。結婚しよう。これから僕の家に来てくれないか。君のこと、父も見たいと……あっ!」
その瞬間。目の前が真っ暗になった。
鼻に焼きごてを押し付けられたような激痛とともに、彼は地面に転がっていた。彼女のパンチが彼の顔面に見事にヒットしたらしい。
「な、なんで……」
「馬鹿にしないでよね。乳揉みたい、なんて言われて、この私がのこのこと、あなたの家へ付いて行くと思ったの」
はっきり言って、誤解をするのはいつも彼女のほうである。いつだって憎みきれない彼女……。
しかし、今は取りあえず気絶しておくしか方法がないな……。
彼は薄れる意識の中でそう思った。