第5期 #4

涅槃

 見通しの良い直線を全速力で走り抜け、突き当たりのY字路を左に曲がる。曲がると同時に垣根を二つ乗り越え、他人の庭に進入し、小走りでブロック塀沿いにもと来た直線を逆行し最初の道へ。駅まで走り電車に乗る。無駄かもしれないと思いながら混んでいる車両を選び出来るだけ身を隠そうとするが、そんなことは所詮自分を落ち着かせるためでしかなく、あいつはそんな私を冷ややかに、且ついつものようにだらしのない口元へ二本だけ指を当てる独特の嘲笑をしながら眺めているのだろう。自分が滑稽なのはわかっているが私は止めない。止めるのはあいつだ。走らなければ。

 イルミネーションに彩られた通りの人ごみに紛れれば、あいつから逃げられるかもしれない。すれ違う猫背の男達や、手を繋いで歩く親子連れ、甲高い声を張り上げる若者達、身を寄せ合いながら歩く恋人、なんにでも私はなれるがどれにも私は属さない。そう、あいつのせいで。私はあいつから生を与えられ、そのために一人ぼっち。こうやって逃げることも多分あいつの計算どおりでどんな人ごみの中にいようと必ず発見される。逃げなければ。

 あいつを撒くためにビルの隙間に入るが、壁に反響する靴音でみつかるのではないかという不安で何度も後ろを振り向きながら、まさかこのビルの上から走る私を観察しているのではないかという恐怖に襲われながら、障害物をかわし走る。妄想だと思えば私もだいぶ楽になるのだが、その発想自体が妄想であり現状から逃げるためにはあいつから逃げるしか方法がなく、夜だというのに唖々、と声が聞こえる暗闇を否定する街には私の隠れる場所は無い。ここから出なければ。

 タクシーを拾い運転手を急かすが、スピードはだしてもらえず、後続の車のランプに戦く。タクシーを追い越す車を凝視していたが、あいつがそんなことをするはずがない。怯える私の姿を一番面白く見られる位置にいるのだ。私にはタクシーの運転手以外の呼吸音が聞こえる。あいつの呼吸音だ。その音は私 の息遣いと重なり、私とあいつが同化して私自身が私を楽しく眺めているかのような錯覚に陥りぞっとするが、この寒気は私にしかないもので、あいつどころかタクシー運転手にすら伝わらない。暖房を上げてくれ。

 タクシーを降り、少し歩くと岸壁に出た。私は
「最後までついて来たか」
 と言って海に飛び込む。

 そしてやっとお前から与えられた務めを終えて安らかになれるのだ。



Copyright © 2002 坂口与四郎 / 編集: 短編