第5期 #3

雲の上の幸せ

 深いまどろみの中、気がつくと私は、とても柔らかい場所に横たわっていた。ひんやりとした心地よい毛布。真上には、青い空にぽっかりと浮かぶ太陽。
 私は立ち上り、ゆっくりと歩き出した。ふかふかの地面は私の歩みを助けるように優しく上下に躍動する。歩いているだけで心が安らぎ、自然と軽快な足取りになる。
 白い大地と青い空。私のいる場所は、雲の上だった。
 やがて人の声が聞こえてきた。私は雲の上で初めて緊張した。用心深く歩みを進めながら、声のする方へと近づいていく。
 聞こえてくる声は序々に数を増した。胸がきゅっと痛んだ。それは忘れかけていた感覚、恐怖というものかもしれない。だがそれはとても楽しげな声で、私はそれを聞いているうちに、自然と微笑みを浮かべていた。
 近づいていくと、そこには驚くほど多くの人間がいることが分かった。見渡す限りに人の群れが連なり、そこにいる人すべてが幸せそうに笑っていた。
「あ、新しい人が来た!」
 一人の少年が叫んだ。
 私は不安を覚えた。私はここへ来てはいけなかったのか。彼らの楽しい時間を邪魔したのではないか。
「ようこそ雲の上へ」
 少年は私の不安を察したかのように言うと、一片の雲の切れはしを差し出した。私はそれを受け取った。少年の暖かい温もりがあった。少年はにんまり笑うと、私をみんなに紹介してくれた。

 月日がたち、私は幸せに浸かっていた。ここではいつも笑いが絶えず、いやなことはひとつもない。私は好きなだけ遊び、好きなだけ眠る。そんな暮らしがどれだけ続いたか。だがやがて、私は不安になった。
 私は最初に出会った少年に話した。
―私、帰ろうと思うの。
―なぜ?
―不安なの。
―なぜ?
―ここにいると、私、幸せすぎるの。
―それじゃいけないの?
―不安が欲しくなったの。
―……。
―お願い、帰る道を教えて。
―帰っても、いいことなんてありはしないよ。不幸になるだけだ。ここにいればずっと幸せに生きていける。
―私、分からなかったの。不安や恐怖、それらと向かい合うことこそが、生きるっていうことだと。ここにいると、生きている気がしなくなっていって、やっとそのことに気づけたの。
 少年はしばらく考えていたが、やがて一つの方向を指差した。
―ここをまっすぐ行くと、下へ降りる階段があるよ。そこをずっと行くんだ。
 少年は別れ際に小さな声でさよなら、と言った。
 だが私にはもう、その声は聞こえなかった。


Copyright © 2002 東雲 輪 / 編集: 短編