第5期 #15

河童

 ガタゴトと揺れる車内の中で、つり革に掴まり車窓から夕日を眺めていると、ふと「河童なんていないよ」という言葉が耳に飛び込んで来た。込み合った車内野中でその言葉は誰が発したか知れず不思議と男であったか女であったも定かでなかった。おそらく他愛もない会話の一端だったのだろうが、不思議と私は胸騒ぎを覚えた。会話の中で否定形で語りうるものとはある程度、お互いの中でイメージされうるものでなければならず、全く本当にないものならば相手に対してわざわざ否定してみせる理由も必要もない。相手に対して否定してみせる必要があると云うことは、少なくとも否定されるイメージがあるということで、それはある意味、存在していると云えるのではないだろうか。いや、そもそも存在していると確定できないからといってそれを即ち存在しない理由にしてしまうのは軽率なのではないか。<4以上の全ての偶数は二つの素数の和として表わされる>この至極当たり前のようなゴールドバッハの予想が未だ証明されず、かといって否定もされていないように、世の中には正確に決定しえないものというのがいくつもあるのだ。あるいはひょっとすると今この列車の中にも河童がいるかもしれない。

 駅に着く頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。ただ訳もなく、まっすぐ家に帰るのが憚られたので駅前の飲み屋の暖簾をくぐった。初めて入る店だったが、割り合いと感じの良い店で、ついつい杯を重ねてしまい、ほろ酔い加減になってきた頃、隣にいたすっかり酔いのまわった男が、不景気がどうのこうのと話かけてきた。しばらくは男の話に適当に相槌を打っていたのだが、そのうちに何故だかうっかり「あなたは河童ですか」と訊ねてしまった。すると男はニタニタ笑うと「そうですよ。私は河童ですよ」と言った。そして「私は河童だぁ!」と叫ぶとカウンターに突っ伏してしまった。私は店主と顔を見合わせて思わず苦笑いを浮かべると、勘定を済ませ店を出た。外では星の見えない空に月だけが白くぽっかりと浮かんでいた。私はあの男は河童であるはずはないと思った。

 家に着いて玄関の扉を開けると、いつも遅く帰って来ることにうるさい妻が何故だか上機嫌で出迎えてくれた。その上、私がテーブルに着くと向かいに坐り、ついぞ見せたことのない笑顔を浮かべ、「あのね、あなたに言うことがあるの」と言った。私はただ黙って頷くと、この女こそ河童だと確信した。



Copyright © 2002 曠野反次郎 / 編集: 短編