第49期 #24

停電ワルツ

「リパッティのショパン、最高なんだ」
勤めから帰った青年は、ビールを持ってスピーカーにかぶりつく。その部屋は木造でとても狭いアパートであったけれど、住人は彼だけなので真夜中でも音楽が聴けた。青年はリパッティのショパンを聴いていると心だけ湯船に浸かっているかのように和んで、その次に火照った心は今度は人肌を求めてなんだか物狂おしくなるのであったがその感情も含めて全体的な優雅さに聞き惚れた。できれば誰かと共感したかった。でも彼には友達も恋人もいなかったので、結局は一人心の中で、リパッティ最高だ、と思っては工場でくたくたな身体がやがて眠ろうと促してくるそのときまで黙って呑んでいた。



「あたしKの昇天が大好きなの」
「毛の笑点? なにそれ。マスター知ってる?」
「はい」
「なあ吉田、それ誰かいたん」
「梶井基次郎ってほら」
「ああ、変態レモンやな、あれか」
「Kって男がね、月の光に映る自分の影をみてるんだけどね、影が本物っぽく思えてきて、月に向って魂を飛ばそうとするの」「毛の笑点……やっぱ変態や」

ブックバーでは毎夜のごとく、この日も一組の男女が本を肴に飲んでいて、店主はシューベルトの「海辺にて」のレコードの後、ふとリパッティのショパンをかけた。



ショパンと聞く度に、K子の頭に思い浮かぶのは「奥様とショパン」「ショパン聞いてますの。おほほほほ」というフレーズで、それが彼女は好きではなくて、意識的にショパンは避けてきた。が、彼女にとってリパッティの弾くショパンは特別だった。ピアニストが自分の感傷ではなくショパンの詩を弾いてくれるのがK子には満足で、彼女のお気に入りはショパンが19歳でウブな若者で恋の告白すらできなかったころの作品69−2。これを聴きながらミルクティをいれて、この恋が叶わなかったのがいいわ、と思うのだった。



その晩、停電が都市を襲った。原因は操作ミスという他愛ないものでよかったけれど、数十分街が暗闇に包まれている間、青年・ブックバー・K子がそれぞれ聴いているリパッティの演奏は途絶えたのだった。

ブックバーでは蝋燭が灯されて、成り行きで客同士が蛍の光を歌いはじめ、酔払っていた吉田のツレが音頭をとった。K子は冷静にミルクティを飲みほしてソファに寝転んだ。青年は、窓を開け月を眺めた。光が青年を照らし、狭い部屋に大きな自分の影を映した。はは、はは、ははははは。笑い声は誰にも聞こえなかった。




Copyright © 2006 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編